人生の学び 大事なのは体験で得た知恵(4月12日付)
人生は学びと共にある。生まれてから死に至るまで、人は学びつつ成長する。その学びを助けるのが宗教であり、宗教もまた、人として、正しく、幸せに、他者と共に和して生きることを学ぶよう促し、志向する世界にほかならない。祖師は私たちに教義を教え込もうとしたのではない。どう生きるべきかを示し、よりよい生き方を学ぶよう促す先導者であった。今この時の喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、嘆き、それらの全てが学びであり、人生は全て学びの中にあると言ってよい。
「冷暖自知」という禅語がある。冷たい、熱いは、自ら直接知ることが大事、あるいは自分で感得するしかない境地というものがあるということであり、体験の重要性を言い表す言葉だ。幼時体験の重要性が指摘されるのは、経験の少ない年頃に肌身で感じたこと、刺激を受け、感覚として味わったこと、知覚し見聞きしたことが、その後の自己形成に大きな影響を与えるからであろう。
臨済宗妙心寺派の山川宗玄管長は、雪の降る厳寒の冬に素足で托鉢する意味を説いている。寒いから足袋を履いて歩けばよさそうなものだが、足袋を履くとぬれた足袋ごと足が凍り付く。素足にわらじ履きで歩けば、最初のうちは足がかじかみ感覚を失うけれども、やがて血が巡ってくる。これも実際の経験から得た学びである。
子どもの頃の泥んこ遊びが大事だといわれるのは、大地を転げ回って全身が泥まみれになる感覚を知ることが、地球上に裸で生まれてきた人間の原初的な生活体験となるからだろう。そうした経験を通して生きるための知恵を学ぶことができ、体験から学んだ知恵が成長を促す原動力となり、人生を導く重要な働きをする。その意味でも、五感と意識をフル回転させて経験する時間の質量が人間の健全な成長には不可欠の条件であり、人生の学びだと言えるのではないだろうか。
失敗も成功への道を開く学びとなる。「羹に懲りて膾を吹く」ということわざのように、一度の失敗に懲りて臆病になり、二度と同じ失敗を繰り返さないためにその道を迂回するだけなら、前進への学びとすることはできない。なぜ失敗したのか、原因を探り、失敗を乗り越える道を求めることが失敗からの学びとなる。
体験を離れたところで生きた知恵を身に付けることはできないだろう。仮想された現実を頭で理解するインターネットの空間に浸りながら、血の通った知恵を学ぶことができるだろうか。このことを改めて問うてみる必要がある。