《部派仏教研究の現状と展開④》近現代の倶舎学概観(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所助手 梶哲也氏
古代インド仏教において、上座部でもっとも有力な学派だったのが説一切有部である。そして、その代表的な文献である世親の『阿毘達磨倶舎論』は、奈良時代に初めて日本に伝来して以降、宗派を問わず仏教の基礎学として学ばれていく。
この倶舎の学びは、明治の近代的な学制の中にも引き継がれる。その一方で、同時期に西洋の文献学と共に梵文、蔵文、パーリ文等の多数の仏教典籍が日本に招来し、倶舎学や説一切有部の研究は新たな展開を見せていくことになった。
江戸期には主に各宗派の学寮、学林をその中心地として研鑚され伝統された仏教の学びは、明治以降、近代的な学制に引き継がれていった。ここでは真宗大谷派の宗門大学として設立された真宗大学(現 大谷大学)を例に、その教育課程における倶舎の学びを見ていこう。
江戸期の大谷派における学びの中心は、京都の高倉学寮であった。それが明治に入り、新しい学制に合わせたかたちで展開していく。その変遷を見れば、真宗大学寮の設置から真宗大学への改編、京都から東京巣鴨への移転と京都への再帰、真宗大谷大学、大谷大学への展開というように、時代の転換期に相応しくめまぐるしい様相である。
このように刻々と変わる状況にあって、倶舎の学びは変わらず学生たちの基礎教育科目であった。たとえば明治29年に改編された真宗大学では、第一学年の全員が週9時間、仏教教理史や因明とともに倶舎を学んでいる。これは一年次配当の様々な科目の中で最多の履修時間だった。これは45年、真宗大谷大学となっても変わらない。まず初年度の学生は、仏教の概論とともに倶舎を学んでいる。
近代的な学制による宗門の僧侶、教師の育成カリキュラムにあって、仏教思想への入門として、倶舎の学びは一貫した位置を占めている。倶舎を基礎として、唯識、華厳、また天台へと学生たちは学びを進めていったのである。
以上のような、仏教の基礎学としての倶舎学は、説一切有部の教義や倶舎論の著者である世親に関する歴史的、文献学的、思想的な近代的学問分野の一つとしても展開していく。
もちろんそれは、この連載の前回で法幢の『倶舎論稽古』や快道の『倶舎論法義』を取りあげた一色大悟氏による論をみれば明らかなように、近世以前に注目すべき成果がなかったということを意味しない。むしろ、江戸期の学寮、学林などで育まれた倶舎の肥沃な土壌があったからこそ、西洋の近代的学問研究の手法と種々の言語で表された関連典籍という豊かな水がもたらされたとき、瞬く間に芽吹き、世界をリードするアビダルマ研究として花開いていったのである。
まずその端緒は、ネパールでB・H・ホジソンによって発見されたヤショーミトラの梵文『倶舎論疏』(『倶舎論』に対する随文註釈書)を、開国間もなく渡欧した南條文雄、笠原研寿の両名が写し、明治14年に日本にもたらしたことである。これは漢訳資料以外の、インド仏教の母語の一つである梵文で書かれた資料の入手ということだけを意味しない。
それまでの日本の倶舎学は、『倶舎論』訳者の一人である玄奘門下の普光と法宝の注釈をその土台としていた。そこに漢訳資料に言及されず、日本でまったく知られることがなかったインドのヤショーミトラによる倶舎理解という、新たな視点がもたらされたという点でも、倶舎学にとっての画期だったのである。
この『倶舎論疏』は昭和5~11年にかけて荻原雲来によって諸本対校テキストが出された。その付録では、この梵文『倶舎論疏』を参考することのない『倶舎論』研究を「靴を隔ててかく感」と表現している。梵文『倶舎論疏』がもたらされるまで漢訳資料しか参照できなかった歯痒さ、もどかしさをこの言葉はよく表している。