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《部派仏教研究の現状と展開④》近現代の倶舎学概観(2/2ページ)

真宗大谷派教学研究所助手 梶哲也氏

2024年10月17日 10時22分

その思いを解消するかのように、さっそく昭和8年には荻原によって第一章が和訳され、また第二章は山口益も加わり9~14年にかけて和訳された。第三章は、山口に加えて第二章の翻訳にも途中から参加していた舟橋一哉が関わっていく。その作業は12年頃にはほぼ完成に近いところまで進んでいたようである。しかし、当時の日本は社会全体が戦時体制を強め、その出版が許される状況ではなく、日の目を見たのは30年になってからだった。

この梵文『倶舎論疏』の刊行にあたっては、同時期に日本にもたらされたもう一つの重要な資料群も大きな役割を果たした。それは明治から大正にかけてチベットを旅した人たちによって入手された西蔵大蔵経である。まず明治33年、寺本婉雅によって北京版西蔵大蔵経が入手された。続いて大正2年には河口慧海が、12年には多田等観が、その他の版の西蔵大蔵経を手に入れた。これらは大谷大学、東京大学、東北大学に所蔵される。貴重書扱いで誰もが気軽に手に取ることはできなかったが、梵文『倶舎論疏』の校訂にも十全に活用された。荻原はその序文で、これらの蔵訳『倶舎論疏』が文字の補足、誤写の訂正、怪しく疑わしい箇所を理解するために必要不可欠なものであったと述べている。

中でも北京版は、鈴木大拙のすすめと大谷大学長であった山口益の決断によって、昭和30~36年にかけて影印版として刊行される。以降、その他の西蔵大蔵経も影印版の刊行が続き、蔵文の仏教典籍が広く研究者の参照できる形となり、倶舎学を含む仏教学全体の進展に貢献することになった。

さらに倶舎学にとって慶事が重なる。『倶舎論』の梵文写本が昭和9年にチベットのゴル寺で発見されたのである。これは大戦によってすぐに校訂出版されることがかなわなかった。しかし、21年にはさっそく頌文がⅤ・Ⅴ・ゴーカレによって、また42年にはP・プラダンによって梵文『倶舎論』全体が校訂出版された。

この梵文『倶舎論』は44年にはやくも第一章、第二章の翻訳が櫻部建によって出版される。舟橋一哉から倶舎を学んでいた櫻部は、プラダンが校訂出版の準備をしていたちょうどその時、インドに留学していた。またプラダンの所属研究所長であるA・S・アルテカルとの個人的な親交もあった。そのような僥倖から、櫻部は出版される前の初校刷りの一部を写す機会を得、校訂出版前から和訳に取り組むことができたようである。以降、梵文『倶舎論』と『倶舎論疏』の和訳研究が続けられ、一部に蔵訳からの重訳があるものの、平成19年の第五章の出版をもって全章が完了した。

このような基礎資料と原典和訳の完備は、研究への間口を広げ、また研究視点や対象の拡大に寄与した。多くの研究者が携わるようになった倶舎学の成果は、櫻部をして「隔世の感」(1985年「初期仏教研究の回顧」『仏教学セミナー』42号)と言わしめる。ながく倶舎学の底本であった玄奘訳『倶舎論』は梵文『倶舎論』によって伝統的な読みが相対化され、玄奘自身の倶舎理解としても読まれるようになった。また仏教の基礎学としてではなく、小乗や余乗の煩瑣な仏教哲学としての扱いでもなく、阿含から大乗へという仏教思想の展開における、欠くべからざる思想研究であることが、倶舎学の意義として再認識されることにもなったのである。

これからの倶舎学

以上、簡単に近代から現代にいたるまでの日本の倶舎学をその和訳研究を通して概観した。この歴史は現在にも引き継がれている。平成27年からは大学院生などの若手研究者の研鑚と交流の場として、部派仏教研究会が年2回、継続して開かれている。また多くの倶舎学者の協力によって、広く部派仏教の研究成果を発表する場として、査読付学術雑誌『対法雑誌』が令和2年から年1回発刊されている。

日本はながく積み重ねられた先師たちの苦労によって、『倶舎論』に母語で触れることができる稀有な環境にある。そして、その理解を確かめる場所も豊富に準備されている。私自身も、そのような場に身を置いたことに喜びを感じながら、多少でもその営みに参与できればと考えている。

そんな私に、この論を書くにあたって警句が与えられたので皆さんに紹介したい。「阿毘達磨の知識がまだ一般にそれほど深まっていないのをよいことにして、ほんの部分的な問題をとらえては気のきいたようなことを言って、それで研究発表とすると言うような点も無きにしもあらずであります」(櫻部 前掲)。倶舎学の意義をしっかり自覚し、研究に励むことにしよう。

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