堕胎と間引き戒めた浄土真宗(1/2ページ)
大阪大大学院国際公共政策研究科准教授 石瀬寛和氏
近世期の浄土真宗は他宗派に比べ堕胎と間引き(嬰児殺)を強く戒めた、と言われてきた。これは浄土真宗本願寺派、真宗大谷派などを問わず浄土真宗一般の傾向と言われ、近代以降の社会学、人口学、歴史学など様々な分野の研究者も言及している。特に有元正雄(1995)は広範な史料を用いてその思想の変遷と影響を検証し、江戸後期には浄土真宗の強い戒めは門徒だけでなくそれ以外の人々にも広く認識されていたとしている。
この戒めについては数量的、統計的な検証も試みられてきたが、江戸期の各家庭における子供の数や地域別の人口増加率など、他の要因にも大きく依存する変数に着目した検証が行われてきたために、厳密な意味で統計的に裏付けられてはこなかった。人口が増え過ぎれば、不作に対して脆弱となり子供を減らすことになるし、人口が多ければその地域から移住して出ていく人も増えるためである。
他の要因が多くあると関心のある効果のみをデータから見出すことは難しくなる。このような状況で関心のある効果をいわば取り出してくることを経済学では識別と呼んでいる。
「経済学では」と書いたが読者の方々の中にはなぜ経済学者がこの問題に関心を持つのか疑問をお持ちの方もおられよう。経済学は、例えば消費税率の変更が景気にどう影響を与えるのかなど経済事象を分析する学問ではないのか、と。
これももちろん正しいのだが、経済学はそのために、様々な人々が消費税率の変更などの社会や政策の変化に対してどう反応するかを考えるところから分析を始める。
また、量的な効果を調べるために家計ごとの消費額や購入品目の変化などのデータを用いて統計的な解析も行う。社会における事象の多くは、化学のように実験室で実験を行うことも、新薬の開発のように治験を行うことも難しいため、経済学は実際に起こった事象に関するデータを使い、そのなかで関心を持った効果のみを「識別」するための手法を発達させてきた。
この方法論は消費税の文脈を離れても同じで、経済学とは、異なる条件を持つ意思決定者が状況の変化に対してどう反応し、その結果何が起こるのかを理論的に考察した上で、データを用いてそれらの反応や結果を統計的に識別して検証する学問体系である、とも言える。
こう整理すると、異なる宗派の影響にある人々の出生行動も分析対象として自然に位置付けられよう。そもそも、プロテスタンティズムが西欧の経済成長を促したというヴェーバーの仮説は古くから知られ、宗教の社会経済変数への影響は経済学者が関心をもつところである。
日本の文脈では内藤莞爾(1941)が浄土真宗を西欧のプロテスタンティズムと対比させたこともあり、浄土真宗の影響を検証することは日本の戦前期の経済成長の理解にも資すると考えられる。近年ではプロテスタンティズム仮説をデータを用いて検証したり、さらに細かく、大航海時代の布教活動におけるカトリックの宗派の進出地域の違いが現在の中南米での教育や経済活動に異なる影響を与えていることを示したりなど、宗教の影響に関してデータと経済学の手法を用いた分析が活発に行われている。
さて、どうすれば浄土真宗が堕胎間引きを強く戒めたという効果を識別できるのか。宗派の違い以外にもう一つ別の外的な変化を使って、その反応の違いを見るというのが識別を与える一つの方法である。
筆者が最近、英文学術誌に発表した研究で着目したのが丙午である。丙午生まれの女性は家族や結婚相手に不幸をもたらすと言われ、江戸中期以降の日本で大きな影響を持った。1966年の丙午年では性比には平常年からの乖離(性比の歪み)は見られないものの出生数が激減した。