災害地支援の温度差 「身になる」ことの重要性(3月26日付)
能登半島地震から1年以上が経過した。復興が一向に進まない一方で被災地外では災害の記憶の風化も言われる中、ボランティアの数が減ってきたとされる。そんな状況で、発災直後から支援の手薄な場所へ入った大阪の宗教者グループは、引き続き炊き出しやカフェなどの活動を続ける。
足しげく通うのは、豪雨災害も相まってまだまだ被災者が自宅で生活できず、避難先や仮設住宅でつらい生活が続いているためだが、行くたびに現地の人たちから「お帰り」と歓迎される深いつながりが築かれているからでもある。「ボランティア元年」とされた阪神・淡路大震災の際「支援者はそこにいて姿を見せることがまず大事」と専門家が指摘したように、被災して落胆の底にある人たちには「自分たちは見捨てられていない」という安堵感が大事だ。
同グループの姿勢は「支援というより付き合い」「相手の身になる」こと。何度も同じ場所へ通って顔と名前を覚え合い、単なる食事提供ではなく前回聞いた話を記憶して次にはその続きを語り合う。提供する料理もしっかり希望を聞いて毎回メニューを変え、しかも食材や調理に凝って「お客さんをもてなす、普段の自宅以上のレベル」がモットーだという。
半面、現地では自分たちの都合や考えが先立つ、独りよがりのボランティアもいる。ある団体は仮設団地のカフェで各戸を回って参加を促した高齢者に、氏名を書かせて名札を貼るよう求めていた。「名前を呼んで話したいから」というが、友人ならそうはしないし、自分から先に名前を覚えるのが礼儀だろう。出すのもインスタントコーヒーに袋菓子で、他のカフェが「こんな時だからこそ選ぶ喜びを感じてほしい」と複数のケーキを必ず用意するのと大違いだ。
行く先でいきなり自分たちのPR印刷物を配り活動をアピールする集団。自分たちの不要になった物資を“押し付ける”かのような支援。炊き出しで賞味期限切れの食材を使っているケースもある。実際の安全性がどうのという問題ではない。被災者は気付かないふりをしていたが「少々嫌な気になっても私たちは『ありがとう』としか言えません」との声を聞く。
もちろん活動資金の問題もあり、裾野を広げるためにはハードルを上げ過ぎない手頃な活動も大事なのは当然だが、冒頭のグループが「災害支援だからといって手抜きやいい加減なのは相手を傷つけかねない」と語る気配りは重要な基本だ。その「困っている人への思いやり」こそ、宗教者が普段から強調するものではないか。