社会をどう変えるか 後難を減らすという視点(3月14日付)
1990年前後、興隆期の民間の国際協力団体(NGO)が、アドボカシーという言葉を好んで使った。開発途上国で貧困からの自立を目指す人々の声を代弁し、真に必要な援助が途上国の民衆に届くよう国などに求める。また南北の経済格差の改善を国際ネットワークで広く訴えるなど、NGOが目標とする活動理念を言った。
その理念に基づき幾つかのNGOが95年の阪神・淡路大震災の救援活動に参加した。その一つ、曹洞宗国際ボランティア会(現シャンティ国際ボランティア会)の創設者で会の事務局長だった故有馬実成氏は災害ボランティアの在り方を「社会が抱える問題に自分がどうかかわるか、自分をどう変え、社会をどう変えようとするのか。それがボランティアを問う基本的な視点でなければならない」と語っていた(毎日新聞社編『国際ボランティア講座』から)。
災害が起こるたびに弱者が苦しむ日本は、NGOの活動現場の途上国と変わらない。だから災害ボランティアは現場で見た社会の構造を心に刻み、自己の意識を高め、たとえ微力であっても、社会を良くしようと努力を怠らない。有馬氏の主張は、そのように解釈できる。その自覚が社会に広がっていけば、後難を減らせる。
だが東日本大震災、能登半島地震など相次ぐ大災害で同様の状況が繰り返される。災害ボランティアも救援活動の効率化という側面が重視され、世を変革するアドボカシーの視点が曇っていく。
目を宗教界に転じると、寺社など宗教施設は、存在自体に後難を減らす一面があることに気付く。
とくに東日本大震災以降、寺社が避難所になり、多くの人々の危難を救った。体育館などと違い、畳敷きの広い本堂には座布団も豊富にあり、炊き出しや水・食料などの支援も受けやすい。社会のセーフティーネットが欠ける中、寺社が地域のコミュニティーを守る核として期待されている。
〈失われたおびただしい「いのち」への追悼と鎮魂こそ(略)復興の起点〉。東日本大震災復興構想会議の「復興構想7原則」冒頭の文章だが、その具体化に宗教者しかできないことが数々あり、現に多くの貢献がなされている。ただ、災害は被災地とそれ以外の地域の間に見えない「敷居」をつくる。両地域の境界を低くし被災体験を共有できれば復興を早め、後難を減らす期待も持てよう。「自他不二」を実践し、宗教・教派の違いを超えて「敷居」を取り払う。災害ボランティアとも協働する。そんな態勢が組めないものか。