人に寄り添うとはどういうことか(1/2ページ)
ジャーナリスト 北村敏泰氏
能登半島地震発生から1年がたった。昨年に現地での炊き出し活動に参加した際、我々の慣れない作業ぶりに、被災して自宅も親族も失った中年女性が助けの手を差し伸べてくれた。苦難の場で、支援する/されるの垣根を越えて「困ったときはお互いさま」を実感する体験だった。別の機会には、石川県輪島市内に炊き出し支援に何度も通う宗教者グループに、被災者から「おかえり! いつもおいしいものをありがとう」と深いつながりをうかがわせる温かい声がかかった。
日常的なように見える情景に「寄り添うとはどういうことか」、特に宗教者のそれはどんなことかが凝縮されている。結論を先に示すと、それは「小さな神仏たちの姿勢」、そしてそこから「大きな物語」を見据えることの必要性だ。
前者の「姿勢」とは、抑圧され小さくされた人、災害など様々な困難に悲しみ苦しみを抱える人、その個々のいのちに、同様に一個の人間である宗教者が相手の立場に立って向き合うこと。そして後者は、そのように人々が困窮する世の中をより良いものにするための展望と行動である。これは災害支援に限らず、貧困や自死、孤立など様々な社会的課題に共通する。
「小さな神仏」は、絶大な力を持つ大きな存在、天上から人間を見ている神や仏ではなく、正反対の「小さく」しかもあちこちにいる弱々しくもある存在。浄土教で言う「凡夫」。路傍で人々を見守る地蔵、法華経信者であった宮沢賢治が「雨ニモマケズ」に「ホメラレモセズ クニモサレズ」と書いた「デクノボー」、つまり弱くも常に人々に寄り添う「常不軽菩薩」が想起される。その姿は、東日本大震災、能登半島地震の被災地や社会の様々な問題の現場で数多く見られた。
東北の地では、津波被害からまだ間がなく道端で茫然とする高齢女性に関西から救援物資配給に赴いていた僧侶が声をかけると「あんぱんが食べたい」と言う。僧侶は「粒あんですか? こしあんですか?」と必ず希望を聞く。「おむつ」と聞くと合う型を尋ね届ける。応急の現場でさえ、否、だからこそ、相手の身になってきめ細かく好みを確かめることは、その人が人間らしく生きることの基本に属する。
宮城県石巻市では、孤立する半壊家屋の被災住民を繰り返し訪問する金光教の災害救援隊が、各家族の事情を把握した上で優しく消息を尋ねる。住民からは「『また来ます』と言って本当に来てくれる」と涙声で感謝の言葉が返された。冒頭のグループがそれで、能登でも住民と強い絆が生まれている。
東京・山谷で野宿者に食糧を配布する僧侶たちは、路上で暮らす一人一人に名前を呼んで声をかけ、その人に合わせて故郷の話をしていた。そこには支援関係の以前に人間同士の温かい関係性が息づく。がんで終末期の患者たちが療養するホスピスで、死の不安にさいなまれる入所者の世話をするキリスト者や仏教者は「裸の人と人として“患者”にではなく、その人の人生に付き合う」という。
自死念慮者の相談を傾聴する宗教者は、様々な事情で相手の決意がどうしても固い場合、死の直前にかけてきた別れの電話に「お話しできてありがとうございました」と引き止めず受け入れる。その人を「最後まで誰にも気持ちを受け止めてもらえなかった」との絶望と孤独のままに死なせない心遣いだ。
このような多彩な現場の等身大の支援者を「神仏」と例えて表現するのは、彼ら宗教者と他の“親切な人”との違いが「全ての人を救う阿弥陀如来に背中を押されている」「神は人を助けるために私たちを作った」などと信仰を口に出すことだという点にある。だがそれは、あえて問われれば、である。
大震災では、宗教者たちの活動は発災直後、目の前にいる「困っている人」に対し「何とかしてあげなくては」とまず行動が先立つものであり、心のケアなどが中心になった現在もそうである。先に教義の言葉の根拠づけがあり、それに沿って行動が導かれたものではない。宗教者としてしっかり身に付いた教えが、言語化される前に直接「行い」に表現されたのだ。
宮城県山元町・曹洞宗普門寺の坂野文俊住職は、津波で全壊した寺を自力で再建しながらボランティアセンターとして地域の復興支援も継続している。境内には重機や建築資材が山積し、袈裟衣ではなく作業服を着ての土木作業が日常だが「これが僧侶としての仕事。私は自分の体でぶつかって人の痛みを知ることからしか分からない。これが仏様のおっしゃることなのだと。これで皆が幸せになれば結果的にそれが仏教につながるのだと思います」と断言する。