人に寄り添うとはどういうことか(2/2ページ)
ジャーナリスト 北村敏泰氏
多くの事例で、苦難の現場で人々のために尽くす宗教者の姿は必ずしも「いかにも宗教者らしい」ものではない。だがその行いの背景には深く自覚された教えと明確な宗教的使命感があり、それこそが宗教者らしさに見える。
日本基督教団石巻栄光教会の川上直哉牧師は、空前の災厄に立ち向かう中で「聖書が違って読めた。『キリストを信じれば救われる』ではなく『全ての人が救われる』と私自身が信じることができるかどうか、信仰が試された」と語る。岩手県釜石市・日蓮宗仙寿院の芝崎惠應住職は「僧侶としてというより、目の前の人を助けるのが人として当然」とし、日蓮宗の教えの「給仕第一」「不自惜身命」を挙げた。他所でも「自未得度先度他」や「大悲無倦」も聞いた。
真に身に付いた信仰は言語化されなくても、行いを通じて他者にも伝わる。金光教災救隊が支援した若い女性被災者は金光教の存在さえも知らなかった。だが「私も皆さんのように人に親切にできる人間になります」と話した。「人に親切に」という教えの内実は、教義用語を振りかざさなくても、その宗教を知らない者にさえ「行い」によって理解されるのである。能登半島地震でも成果を挙げる天理教災害救援ひのきしん隊のメンバーは「天理教とはどんな宗教かと聞かれたときに『私の行うところを見てください』と言えることが大事です」と語る。
「小さな神仏たち」は決してスーパーマンではない生身の人間であり、失敗も繰り返しながら相手に寄り添う。相手もまた逆に支援者を支え「弱い者同士、お互いさま」の助け合いによって「共苦」の関係が立ち上がると、冒頭に述べたように互いの垣根さえ乗り越えられる。
「炊き出しに並ぶイエス」というフリッツ・アイヘンバーグの版画がある。冬のニューヨークで凍えながら炊き出しを待つ野宿者たちの列の中にイエスが並んでいる図柄。「神(の子)」は、決して施しをする「助ける側」ではなく「助けられる側」つまり貧しく小さくされた人々の側にこそいる、という明快なメッセージだ。姿はとても貧弱で弱々しいが、そのようなイエスを含む「最も小さくされた人々」こそが彼らを助けようとする人たちを実は支え、助けているのではないか。
ではなぜ「大きな物語」が必要か。個々人の苦悩を生みだす社会的矛盾は複雑で絶大であり、それに立ち向かうためには複数の「連携・連帯」が不可欠だからだ。
北九州で生活困窮者やホームレスの人の支援を続けるNPO「抱樸」の奥田知志牧師は「様々な人が問題を抱えながら生きていく糧は、どれだけ人とつながっているか。手を差し伸べる当初は専門的な数本の太い綱が有効だが、いざとなったら100本、200本の糸がからまる方が、10本や20本切れても大丈夫。『助けて』と言える人がなるたけ多い環境が大切です」と語る。
そしてさらに「『自己責任』を言いたてて困窮者を放置し、セーフティーネットの破れた社会こそが貧困を生み出している。そこへ戻して問題ある社会を補完することに終わるのではなく、ホームレスを生まない新しい社会を創造することです」と。
小さな神仏が奮闘しなければならないような諸課題は社会の構造的矛盾自体に根差しており、地を這う働きだけではその個別の苦しみを救うことさえ限界にぶつかるケースが多々ある。災害にしても貧困や差別、自死問題にしても、個別の課題を解決する、あるいは苦しむ人に寄り添い続けるためには、そのような課題を生み出す社会構造そのものを問題にする必要が当然に出てくる。
「大きな物語」とは人間の「幸せ」のありようを示す指針、哲学や思想でもある。人々に信頼される宗教も本来それであるはずであり「世直し」が宗教から表明されるのもそこに宗教の「大きさ」があるからである。それは、ほとんどの宗教が人間の「苦」からの「救済」を目指し、宗教者はこの世界が「苦」=現実社会の人々の苦難に満ちていることを身をもって知っているはずだからだ。
社会での現状は微妙だ。だが「物語」を志向・体現する団体という例では大震災を機に発足した「宗教者災害支援連絡会」がそうであるし、キリスト者ら宗教者も多く関わる「ホームレス支援全国ネットワーク」などもだ。自死問題に取り組む僧侶たちのグループも各地にある。これに関連して個別遺族らの閉ざされた「分かち合いの会」から国や行政への対策働きかけを進める「全国自死遺族連絡会」が発足し、障害者支援など他の社会的課題の団体とも連携しているのは「小さな神仏」から「大きな物語」への橋渡しの貴重な実例である。
実効性のある「大きな物語」を描き共有するためには、苦の現場に根差した行いを前提とするしっかりした「連携・連帯」が大事だ。それは「小さな神仏」たちがそれぞれの信仰に裏打ちされながら、具体的な社会的課題に向き合い、場合によっては教派の壁を超え、また「助ける」「助けられる」という垣根も乗り越えつつ、その中で共有される目標達成のために行動を通じて連帯することによって描かれるものであろう。