《部派仏教研究の現状と展開⑤》律研究の今(1/2ページ)
東京大大学院人文社会系研究科准教授 八尾史氏
律と呼ばれるインド仏教聖典の一群は、その独特の性質から、仏教という宗教を知ろうとする者に豊かな知見をもたらす。「部派仏教研究の現状と展開」最終回となる本稿では、律を対象とする研究の現在と、そこから見た部派仏教について述べたいと思う。とはいえ紙幅の都合上、ごく偏った内容となることをお断りしておかねばならない。
律は仏教聖典を構成する経・律・論の「三蔵」のひとつであり、出家修行者の生活規則を記述した文献の集成である。現代の研究者から見れば、それは古代インドで仏教徒たちがどのような制度、慣習、価値観のもとに日々を送っていたかを知るための最重要資料であり、また部派とその聖典のありようについての貴重な情報源でもある。
あるインタビューで、龍樹が空について述べたことよりも彼が自分の母親の死んだ時どうしたかに関心があると語ったグレゴリー・ショーペンは、1990年代以降の律研究の一つの潮流をつくってきたといえる。ショーペンは出家者の経済活動をはじめとする現実社会の中の仏教の様相を文献や考古学資料から読み解き、この方面への関心を惹起した。そこで用いられたのが、まとまった形で現存する六本の律の中で最大の「根本説一切有部律」(以下、根本有部律)である。19世紀以来、欧米ではおもに仏伝・説話文学の文脈で参照されてきたこの文献は、僧院生活の具体的細部を照らし出す資料として新たな相貌をあらわした。
続く世代の研究者たちによって根本有部律の研究はさらに展開したが、そこには律から抽出されるインド仏教の風景へ向かうものと、根本有部律という文献そのものへ向かうものとの二つの方向性があったといえる。たとえば2014年の著書で律における出家者と家族の関係を論じたシェーン・クラークは、他方、比丘尼律分別の分析にもとづき、根本有部律に複数の伝承系統が存在したことを明らかにした。根本有部律の複数性は他の研究にも支持され、研究者の間での共通認識となりつつある。
もちろん近年の律文献研究は根本有部律に限らない。また仏教の伝わった各地域における出家者集団の様相を文献や考古学資料の解読、フィールドワークなどを通じて描き出す研究も増えてきているが、これらは文献としての律の枠を超えた広い意味での律的テーマの研究ともいえる。15年に米国で発刊された雑誌『仏教・法律・社会(Buddhism, Law and Society)』はそのような関心を示している。また今年9月刊行の岸野亮示編『戒律研究へのいざない』(臨川書店)は、仏教とジャイナ教の律や生活規範についての研究を非専門家にむけて平易に解説する試みである。
律は仏教徒たちの生きた現実に私たちの目を開いてくれるだけではない。すでに触れたように、この文献は部派とその聖典について多くの情報をもたらす。
かつてインドとその周辺に存在した諸部派の聖典のほとんどは、今では永久に失われている。インドの言語で完全形を保った聖典集成は、スリランカ・東南アジアに伝わる上座部大寺派の三蔵しかない。
もっとも有力な部派であった説一切有部(ここでは根本説一切有部を含む広義のそれを指す)でさえ、現存する聖典資料はごく不完全なものにすぎない。奇妙なことに、世親の『阿毘達磨倶舎論』に代表されるいわゆるアビダルマ論書は東アジアやチベットで翻訳され、歴史を通じて学ばれてきたというのに、それら論書が拠って立つところの教説の源泉である説一切有部の経蔵は、その一部しか翻訳されることがなかった。インドの原典は失われ、今ではこの経蔵の全貌を知ることは不可能である。