理性を見失った社会 特攻隊の悲劇から学ぶ(10月18日付)
神風特攻隊が「敷島」「大和」「朝日」「山桜」の4隊編成で初めて出撃し、フィリピン・レイテ島沖で米空母群に体当たり攻撃したのは80年前の1944年10月だった。帰還を許さぬ「死の強制」は軍事作戦に例を見ないといわれたが、常軌を逸したその非道は終戦に至るまで執拗に続けられた。命の「使い捨て」というほかはない。そんな社会の病理が、今の時代のどこかに潜んでいないだろうか。
特攻の思想の起こりについて、日本人と桜の密接な関係性が軍部に利用されたとする見方がある。
初出撃した「敷島」など4隊の名が本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によることはよく知られる。高潔な日本精神を朝日に輝く桜に例えたものだ。だが、軍部は日本に伝統的な桜の美的感覚を変質させ、特攻兵の非業の死を散りゆく桜に事寄せて美化した。仏教用語の散華という言葉も盛んに用いた。
大貫恵美子著『ねじ曲げられた桜』は、戦時色が深まる中で軍部が皇国への忠誠心を高めるために教科書、唱歌や流行歌、演劇などの全てを動員し、心をつかむ切り札として桜を使った歴史を詳細に調べている。軍歌「同期の桜」に象徴されるように、靖国神社の桜を国に殉じた兵士の生まれ変わりと仮想し、崇高さを強調したのは一例に過ぎない。
一方で、新聞やラジオが大きな役割を担ったことも見逃せない。
「敷島」隊などの突撃を、当時のある全国紙は「神鷲の忠烈 萬世に燦たり」などと1面で興奮気味に報じた。戦況が悪化するにつれ「身を捨て国を救う」などと、特攻隊を起死回生の神兵のように扱う報道は熱を帯びていったが、英霊となる兵士の真情に真剣に向き合うことはなかった。世相全体が理性を失っていたのである。
特攻による戦死者は、人間魚雷「回天」なども含め約4千人という。20歳前後の若い学徒兵や少年飛行兵が主力だった。近年、彼らが「平和のために命を捧げた」などという言説を耳にするが、作家の保阪正康氏は『「特攻」と日本人』で「特攻隊員は生きたいという望みを、国策に殉じることで納得させようと苦しみ抜いた。現代人が、国を思う純粋な気持ちで死地に赴いたなどというのは、彼らに対してきわめて非礼」(要約)と述べている。至当な指摘だろう。
特攻を語る時、当時の時代状況を想像しないと悲劇の実相は見えてこない。その作業を通して理性を失った社会の怖さが分かる。過去の事と考えていては、今の時代も見えないのではないだろうか。