古文・漢文の教育 文化的含蓄を学ぶ意義(11月15日付)
学校教育において古文・漢文の教育は不要だとする議論は、毎年のように起こる。グローバル化や情報化に対応するため、以前とは異なった教育が必要と主張する人が増えている。英会話の能力を高める教育や、情報機器の使い方、プログラミング能力を養う教育への要請がその最たるものである。
こうしたことが古文・漢文教育不要論に拍車をかけている側面がある。就職などにすぐ役立つかと言えば、グローバル化や情報化への対応を視野に入れた教育には、古文・漢文教育は太刀打ちできない。だが学校教育はそれぞれの社会が営々として積み重ねてきた文化的蓄積を継承し発展させる場でもある。この点が、古文・漢文不要論では見過ごされがちである。
とはいえ現在の古文・漢文教育が大きな問題を抱えていることも間違いない。文法や細かな語義の解釈などに比重を置き過ぎている。これが古文・漢文に親しみを持つどころか拒否感さえ持たせる結果になってしまっている。
古文・漢文は使われなくなった言葉ではない。現代の言葉の基層にあり、現代の言葉を生んだ母体でもある。現代文化や現代社会をリバースエンジニアリングすれば、これまでの歴史のどこかにその根が存する。現代の言葉の使い方さえ知っていればいいというのは、過去の努力や過ちを学ぶ必要がないと考えているのに等しい。
古文・漢文が現代文につながることの認識が不十分であるのが不要論を起こす一つの理由に違いあるまい。さらに古文・漢文には宗教的観念、とくに仏教や儒教の思想を理解する上で欠かせない用語が数多くある。それは現代文とて同じであるが、古文・漢文の世界では、その宗教的意味がより強く意識されていた。
この点を教員が十分認識しているかどうか。因縁、縁起、果報、精進、方便など、仏教の用語は一般的に用いられている。『徒然草』など、仏教の基礎的知識のない教師が説明しても、話の含蓄は伝わりようもない。儒教の五倫は、今日では教えるのが適切と考えない人が多い観念を含む。君臣の義、夫婦の別などがそうだが、実際には、その観念の影響は現代社会のあちこちに及んでいる。
神職や僧侶の資格を持ちながら初等・中等の学校の教員として日本語教育に関わっている人たちは、この点についての認識を深める重要な役割を担っているのではないか。過去の文化を現代でどう扱うか、継承すべきものは何か、克服すべきものは何かを、古文・漢文を通して考える。これはグローバル化時代には重い課題である。