映画「教皇選挙」に見る 「方法としてのフィクション」
東京大教授 伊達聖伸氏
ローマ教皇フランシスコが死去した。4月20日の復活祭でサンピエトロ大聖堂に姿を見せ、軍縮と平和のメッセージを伝えた翌日のことだった。
映画「教皇選挙」が上映されている。日本での劇場公開は教皇の健康状態に深刻な懸念があった時期と重なったが、いよいよ現実がフィクションをなぞるような事態となり、さらに関心を集めるかもしれない。
映画は、教皇の死から始まる。主人公の枢機卿ローレンスが、新教皇を選出するコンクラーベの議長を務めることになる。冒頭の説教で、確信は寛容の敵であり、疑念を持つことの重要性を強調していることが印象的で、映画の筋書きの暗示のようでも、現代世界への教訓のようでもある。
観客は外部から遮断された密室の舞台裏を見る視点を与えられ、その再現には製作者の想像力も駆使されている。私たちの日常とは隔絶した世界に関心をそそられる一方、登場する聖職者たちはタバコを吸い、スマホを操作するなど、私たちと変わらない生身の人間として描かれている。さまざまな欠点を抱えた人間が野心を燃やし、策謀をめぐらす様子は、聖職者集団にかぎらず多くの社会に当てはまる寓話のようだ。
現代のカトリック教会が抱える大きな課題に、セクシュアリティをめぐる問題がある。本作でもそれは、内と外のギャップや結びつきを浮かびあがらせる論点として意識されている。聖職者の性的スキャンダルは有力候補の一人にとって命取りとなり、男性優位の社会で修道女アグネスが果たす役割は小さくない。物語の結末も、聖職者の性の問題に関係している。
ミステリー仕立ての展開はよくできていて、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を連想した。父親殺しの犯人が三兄弟の誰かと思わせて、4人目がいたという驚きに似ている。
次期教皇の有力候補者は6人で、まずはリベラル派と保守派の二大陣営に分けられるが、グローバルとスピリチュアルの次元を加えれば四つの象限を設けることができる。リベラルと保守の対立は古くからあるが、現代ではカトリックの重心が西洋から南米やアフリカに移行している面もある。第三世界は西洋に対して多様性と寛容を説くが、しばしば権威主義的な体質も引きずっている。リベラルが説く多様性と寛容にも、欺瞞が混ざりがちである。紛争の悲惨を目の当たりにし、疑念に苛まれ、弱さを自覚し、多様性と寛容の理念を掴み直すことが、第4象限としてのスピリチュアルの本領ではないか。
思いがけない人選は、やはり教会は世俗の論理にまみれていても精神的権力なのだと思わせてくれる一方、結末には違和感を抱き落胆する教会関係者も少なくないようである。
現実とフィクションは違うと言えば元も子もないが、フランスの歴史家で作家でもあるイヴァン・ジャブロンカは、現実と作り話の境界を取り払う「方法としてのフィクション」の有用性を説いている。「教皇選挙」は荒唐無稽だろうか、本当らしい作り話だろうか、現実を超えた真理だろうか。少なくとも私は、現代世界を批判的にとらえ、規範的に考える手がかりになる作品だと思う。