言葉の重さと役割 状況を見て法を説く意義(8月28日付)
「言葉が軽くなった」と言われて久しい。今はこの表現が二重の意味を帯びてきている。
一つは従来使われる発言の内容の軽さである。「綸言汗の如し」は、天子が一度口に出したら、汗が体内に戻らないように、取り消せないと諭した中国古代の格言である。天子でなくても、組織の長にある者は、自分の発する言葉の重みを感じなければならないとの教訓として受け止められてきた。
そんな教訓はどこへ行ったかと思わせるのが、昨今の政治家の言葉のあまりの軽さである。それはおそらく多くの人が感じているであろう。謝罪や反省の弁はよく耳にするが、心がこもらず形だけ整えた言葉が並び、AIにしゃべらせた方がよほどましと思える。
もう一つは言葉が書き記されることが少なくなったがために目立つ軽さである。マスメディアが存在せず、印刷技術が普及していなかった時代は、重要なことは筆で書き記した。筆写されることで、情報が各所に保管され、広められた。文字として残された言葉の重みは、今と比較にならない。
昨今は大学でも講義内容を筆記する光景が少なくなっている。教員がパワーポイントで説明し、学生がその画面をスマホで写して保管するのがごくありふれてきた。
一つ一つの言葉の中に、自分の思いや伝えたいことをなるべく正確に表現し、受け取る側もそれを読み取ろうとする。筆記する機会が減って、そのような姿勢が弱くなった。これも言葉が軽くなった理由と考えられる。
次々と流行語が生まれ、目新しい現象が起こり、社会はどんどん変わっていくように見える。だが、人間が何に悩み、何に苦しむか。人間にとって重要なことは、古代も現代もさして変わりはない。その証拠に古くからの格言はほとんどが現代でも通じる。様々な媒体でなされている身の上相談への回答を見ると、それがよく分かる。
長く生き抜いてきた宗教は、大事な言葉は大切にしている。祖師や教祖の言葉が重視される。その言葉が持っている重さを伝える努力が、多くの人によって重ねられてきている。このことを最も身近に感じ、また実践できるのは宗教関係者である。けれども難しいのは、同じことを状況の違いによって異なった表現にしなくてはならないことである。
対機説法は人を見て法を説けという意味だが、状況を見て法を説けという意味に拡大解釈してもいいだろう。新しい情報ツールに踊らされることなく、言葉が果たす役割を宗教家こそはしっかり担っていく役割がある。