平和への課題 政治に無関心ではいけない(7月5日付)
学徒出陣で海軍に入隊して戦艦「大和」に乗り組み、沖縄戦で米機動部隊の圧倒的な襲撃の末、沈む巨艦の大渦流の中から奇蹟的に生還、『戦艦大和ノ最期』を執筆した吉田満氏は、後に「戦争協力の責任は、直接の戦闘行為あるいは、軍隊生活への忠実さだけに限定されるのではなく、みずからそのような局面まで追いつめていったすべての行動における怠慢と怯懦とを含む」と書いている。「戦争否定への不作為の責任を改めて確認することが、敗戦によって国民が真に目覚めるということであるにちがいない」という吉田氏の言葉は、平和への課題について深く考えさせる。
戦争に対する責任を、どうやって果たすべきかを考えた吉田氏は、戦争協力という責任の実体は政治動向や世論の動向に無関心のあまり破局への道を無為に見逃してきたことにあるとの結論に達した。もしこの責任を果たす道が残されているとすれば、それは自らの無力をいたずらに悔いることではなく、同じ愚をくり返さないために、戦争阻止のために為し得る限りの努力を傾けることでなければならない、と述べている。
戦争を憎むだけで戦争を阻止することはできない。戦争憎悪が平和運動の動脈となるためには、否定の力を平和への熱意として燃え上がらせる「肯定の力」が必要となる。しかし、それは平和の原理によって貫かれていなければ、平和のための戦争という矛盾に陥ってしまう。「平和」を絵空事に終わらせないためには、人間性の尊重や、真実のあくなき追求、相互信頼と協力、進歩への意欲が必要であり、それらを血肉とするところから戦争否定への道が切り開かれる、ということだ。
戦争という巨大な暴力を経験した吉田氏は、平和運動がいかに困難であるかにも言及している。その意味は、「平和への歩みそのものの中には“戦い”の要素を内包することが許されないために、それが本質的に受身であり、内向的であり、寛容であるという点にある。戦争の暴力に対して、平和運動が無力に終らないためには、受身の本質を失わないままで受身から攻勢にかわる転機を見出すことが必要となってくる」という。
戦時下においては、国家の必要は個人の存在に優先するという認識が強いられた。しかし今日私たちは、国家の意志は国民の世論によって導かれるべきものであることを理解している。そうであるなら、国家の行方を決定する政治への無関心からの脱却こそが平和への最大の課題であると言わなければならない。