被団協平和賞が問い直す 慰霊碑碑文論争の今日性(11月1日付)
広島の原爆死没者慰霊碑の碑文「過ちは繰返しませぬから」には主語がない。誰が主語なのかを巡る碑文論争は1952年8月の慰霊碑建立当初からあった。1発の原爆で都市を丸ごと焼き尽くす所業を米国は2度も重ねたが、戦争を始めたのは日本であり、碑文は「戦争は人類の過ち」という理念に立脚して起草されたといわれる。広島市の公式ホームページには「碑文は、すべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉」と説明されている。
だが、対ウクライナ戦争でのロシアに続き、パレスチナ自治区ガザに侵攻したイスラエルも、一部の閣僚が核兵器使用は選択肢の一つと発言し、さらに非公式な場で広島、長崎への原爆投下を、ガザ市民の虐殺を正当化する理由にしていると伝えられる。被爆体験の認識不足に深く失望するが、その矢先に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞した。実にタイムリーだった上に、碑文論争の今日性をも浮かび上がらせてくれた。
極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯に無罪の意見書を出したインドのラダビノード・パール判事の碑文批判(52年11月)を思い出す。中島岳志著『パール判事』によるとパール判事は、原爆投下には抜き難い人種差別感情があるのに非を認めない米国と、その米国に無批判に追随し再軍備に走る日本に強い不満があったという。その思いが「落とした者の手はまだ清められていない」「過ちを繰り返さないというのが将来武器をとらないことを意味するのなら立派だが、日本が再軍備を志すのなら犠牲者の霊を冒とくする」などの碑文批判に凝縮している。
ちなみにパール判事のA級戦犯無罪論は、国際法の厳密な解釈に基づく。日本が海外で犯した、例えば南京事件は、証拠が「圧倒的である」と断じるなど無原則な日本びいきによるものではない。
平和賞に戻すと、日本被団協の受賞は被爆者が長く訴え続けた核廃絶と被爆証言が「核のタブー」という規範を築き上げたと評価された。だが、日本政府は今も「原爆投下は必要だった」とする米国の責任を問うこともなく国の安全保障を米国の「核の傘」に依存し、軍備を増強する。米国への気兼ねからか、核兵器禁止条約にも参加しようとしない。さらには大戦の加害責任にも決着をつけないままだ。それら足元のことをきちんと直視しないと「人類の過ち」は空疎な言葉に終わる。今日性と言ったのは、そういう意味である。