いのちの電話⑨ 生きていて良かった。それが信仰
人が自死にまで追い込まれるのは貧困などの問題に加えて、生きることへの価値を見失い、他者との間で孤立するからだと藤藪庸一牧師には見える。見方を変えれば「個」の大事さを追求するあまり社会性が欠如すること、人間関係のストレスに非常に弱いこと。その背景に“負”の部分を含んでおける社会がなくなり貧相になった状況がある。
「以前はいざこざやトラブルがあっても何とか一緒にやっていけたのが、今は悩んでいる人がいても、『かわいそう』という程度で皆で背負えない」。それは損得で動く社会だから。そこに「利得やモノで計れない大切なことがあると示すのが宗教者の役割です」と語る。
藤藪牧師は、自死念慮者保護などの取り組みも「僕がしていることは全て伝道活動」と明言する。イエスは目の前で困っている人の問題に向き合って解決に努力した。「そのようにこの白浜で私もしたい。僕が神を信じてやっていることを見た人が、『ええなあ』と思い、そこに大事なものがあると気付いてくれたらなあ」と。
言葉だけの「布教」ではなく具体的な《行い》でそれを示す気構えだ。いのちの電話で助けられた人がキリスト教に興味を持ち聖書を読むようになるのも、牧師の指示ではなく教会での共同生活を通じての気付きからだ。
胎児を妊娠中絶した女性が自死を図った。話を聞きながら牧師は「当の本人、赤ちゃんからは許しは得られなくても、本当に悪かったと思うなら悔い改めて生き直すことができます」と伝えた。そして「そういうあなたのためにも罰を受けた人がいる」と十字架のイエスのことを話すと、メッセージは女性の心の深くに届いたという。では、自死まで思い詰めた人の救いはキリスト教の信仰なのか?
藤藪牧師は慎重に言葉を選び、「人が幸せになれるかなれないか、本当に生きていて良かったと思えるのかにはいろんなレベルがあります」と話す。
「人生は苦しい、でも生きていて良かった。そのように生きようと思えるためには揺るがない価値観の土台があることが大事です。僕は信仰を持ち、それによって生きることができている。クリスチャンになることは幸せに近づけること。だからその信仰を分かち合いたいと思います」
だが、地域に根差して生活する中で、盆の行事や寺の葬式で人々と話して、「いいなあ、宗教は違っていても体の中に大事な価値観が流れているなと感じます」とも言う。一方で「信仰を持てば幸せになれるなどとは言えない。信仰があっても人生は苦しいし、僕自身が苦しい」。でも「しんどくても夜寝る時に、今日一日生きてて良かったと思える。それが信仰ではないでしょうか」と。
今日も三段壁の海は荒れている。いのちの電話の着信音はいつ鳴るか分からない。「神に言われて」活動をしていても悩みは尽きない。つらさを抱えた時、藤藪牧師は一人きりになる時間を持ち考えを巡らせる。「本当にこれでいいのか?」。自分の考えにそれほど自信があるわけではなく、支えになるものが欲しい時、それを聖書に探す。しんどさを祈りの中に小出しにし「神様が最後は責任を持ってくださいますよね」と問い掛ける。
失敗も反省さえも独り善がりかもしれないし、神に叱られることもあるかもしれない。だが「人生を閉じ天に召された時、最後は神が全部教えてくださる。答え合わせをしてくださる」と信じる。
(北村敏泰)