いのちの電話⑧ 任せることの大事さ再認識
いのちの電話で藤藪庸一牧師に助けられ、教会で生活する中でキリスト教に興味を持ち、信徒になる人もしばしばいる。しかし、受洗して自立してからも突然の不安や病気で結果的に自死を選んだケースもある。牧師は「もっとこうしてあげればよかった、もっと話をして地元に戻さずここで見てあげればよかった」と後悔することも多い。しかし「命を与えられるのも取られるのも、全てを神様に委ねることが大事です」と語る。
それは、死を決意して亡くなる、あるいは何かのきっかけで思いとどまる、また実際に三段壁から投身しても助かるケースもあり、「それはもう最期の瞬間までその人のそばにいる神の御心だからです。『誰一人として見捨てられない』と聖書は教えています」。
では、保護した人が自死したら、それは「失敗」なのか。自死念慮者の相談を電話や手紙で受けている僧侶たちが、最終的にその人が死を選んでもその思いを尊重して寄り添うということへの考えを尋ねてみた。
「思いは受け止めますが、僕はやはり最後まで『死なないで』と止めます」。じっくり考えて牧師はそう答えた。キリスト者として「神に与えられた命を拒絶することを選んではならない」と、自死を「罪」だと考え、説きもする。「生まれるのが自分の意思でないのと同様、死も神の御心なのです」。だが最期まで神が関わってくれた末に亡くなったことの重みはかみしめ、実際に自死した人を「罪」だとは言わない。「神の御心は全部は想像できない。できたら神じゃありません」
一方で藤藪牧師は、自死者の遺族の苦悩を痛いほど知る。心に穴が開いたような喪失感、そして「止められなかった私のせいではないか」という自責の念にずっと苦しむ姿を何度も見てきた。自死念慮者は「自分が死んでも誰も見向きもしない」と言うが、誰もがいろんな人との関わりで生きている以上そんなことはないと断言する。
拒否する教会もある中で藤藪牧師が自死者の葬儀をきちんとするのは「この地上の生涯を終えてその人の魂を神に委ねる。残された人々には故人が天国で幸せになっているとお知らせし、再会を願うためです」。そして「神は誰も見捨てないからです」と付け加えた。
そういう牧師も「自分は弱い人間だ」と思い知ることがよくある。教会、NPOの業務に加え、子供教室もしており、地域との交流も。「まちなかキッチン」の運営も大変で休みはほとんどない。店で調理の点検をしている時にも、スマートフォンが鳴る。自立した人が家賃を滞納しているとの大家からの苦情だった。牧師が忙しいのは当たり前だと言い、「人も時間もエネルギーも限りがあるのに、それがそろわなくても新たな仕事に邁進してきた」。全て抱え込む性格で、キッチンでも盛り付けや注文取りまでした。
だが教会の仕事も山積、「自分が手放すと失敗だとされる」と恐れて日々のやりくりだけに追われる中で、全体が見えなくなって限界が来た。「全部任せてほしい」。そう仲間に言われて、できないという事実を素直に認め、それを任せることの大事さを再認識する。自分の側が助けを求めることができた。「休んだ後で、自分にしかできないことをしなさい」とも諭され、人に教えを説くという教会の仕事に重点を置く余裕ができた。「私は弱点だらけ。でもこんな私も神に愛されているのです。そして誰もが」
(北村敏泰)