SNSがもたらす錯覚 信頼する情報の見分け方(7月17日付)
東京都知事選で多くの人が驚き呆れたのは一部の候補者が張った選挙ポスターの非常識ぶりだ。注目を集める選挙では、泡沫候補と呼ばれる人が立候補する例はこれまでも多々あった。売名行為としか思えない例も同様である。
しかし、今回は裸体に近い女性の姿を掲示したり、立候補していない人の写真などを数多く掲示したりと、ポスター掲示板の乗っ取りと言うべき行為が続出した。選挙管理委員会はこれらは想定していなかったと言うに違いない。
ネット時代、SNS時代になって、これまでの常識が通用しない局面が社会に増えてきた。都知事選はそれが目につく形で多くの人が知ったので話題になったのだが、類似のことは日常的に起こっている。「それくらい言わなくても分かるだろう」はすっかり死語である。「そんなことまでする人がいるのか」と、嘆かなくてはいけない出来事は日常茶飯である。
問題は、常識の境界をはるかに逸脱した主張や行為がSNSを通して拡散されることで、あたかも一定の人々に支持されているかのようなイメージが出来上がってしまうことである。フェイクニュースの広まりも、陰謀論の広まりも類似の問題を抱えている。
宗教はその教えを説く人が実際に存在し、それを広めるのも弟子や信者たちであるのが今までの常識だ。ところが、バーチャル宗教が注目された世紀の変わり目頃からコンピューターテクノロジーや脳神経の研究は飛躍的に進んできている。AI教祖、AI宗教教師、AI教団の登場も現実味を帯び始めている。ブッダボットなどは、すでにその路線に参入していると言える。だがこうした技術を利用し、宗教的な目的以外に使おうとする人は確実に現れる。
カルト問題は「人々の幸福を目指すのが宗教」という価値観とは程遠い行動が、組織内に一定の割合を占めることで表面化する。テロ行為や脅迫的手段を用いた集金手段などは、ある意味で分かりやすいカルト問題であり、それ故、人々の批判も多くなされる。
SNS時代、AI時代には宗教に名を借りたそれこそ非常識な考えと行為が、どのようなルートで広がるのか、見えづらく、また予測しづらいものになる。オンラインの情報が誰によって発信されたのか、どこまで信頼できるのか、それを見分けなければならない。
SNSやAIが拡散する情報を見極める一つの力は、現実の人と人の交流で培った勘のようなものである。宗教の日常的活動は、その勘を養う上ではとても大事な機能を持っている。