死の悲嘆ケア 人間同士の関係性が重要(6月28日付)
死の悲しみや死にゆく恐怖にいかに寄り添うのか――。終末期医療に携わる人たちの研究会で、ホスピスなどの現場に向き合う宗教者たちの姿勢が手本にされることがある。そこでは、E・キューブラー・ロスが示した「死の受容過程」に沿った対応やいわゆる専門的なグリーフケアといった心理的な側面だけではなく、人と人との付き合いという側面が特徴的だ。
高齢者施設やがんで終末期の患者たちが療養するホスピスで、死期に向かう入所者が死の不安にさいなまれ、現実にはいもしない「親」に話し掛けたり食事を拒否したりする時、世話をするビハーラ僧は、何が訴えたいのか、なぜ食べたくないのか、その人の身になって付き合う。「患者にではなく、その人自身、その人生に付き合うのです。皆さんは人生の先輩。その後から付いて行く者として」
滋賀県にある近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピスの医師は、「ホスピスはいのちが生まれる場所」と考える。「患者は皆、一個の人間です。私は生きる人、あなたは死ぬ人、じゃない。病気だから死ぬんじゃなくて、人間だから死ぬのです。医療者も同じように往く身の人間です」と言う。
「患者さんは人生の先輩としていのちを、生きる意味を教え、力を医療者に与えてくれる。だから、亡くなっても私たちの中で生き続けている」という姿勢で対等な付き合いを心掛ける。
入院してきた人には、まず「何がしたいですか?」と尋ね、「あなたの寿命を長くすることはできません。けど、その間に良く生きられるようにします。愉快にいきましょう」と。治せないことをはっきり告げるが、「医師としてはできないけど、人間としてそばにいる。無力な人間同士、できないことを受け止め、共に苦しんで“できなさ”に付き合うのです」と語る。
各地の病院などでチャプレン活動の実績がある僧侶はスピリチュアルケアの講演で、娘を列車事故で亡くした聴講者に「寄り添うって簡単に言うな! 私たちは暗い海で溺れているんだ。一緒に溺れてくれるのか」と言われたことがある。そして「それができなければケアではないとは思わないが、一緒に溺れていると思い込むのが問題。できないことを自覚しつつ、相手の痛みと共に居続けることが大事」と悟った。
悩みながらも相手を支えることができるのは、人間は「凡夫」であり、互いに弱い存在同士であることを熟知している宗教者だからこそかもしれない。