親鸞聖人の著作に見られる差別言辞 ― 価値観の時代的変遷において問われる課題(1/2ページ)
仁愛大学長 田代俊孝氏
先年、筆者は『親鸞 左訓・字訓・語訓辞典』(法藏館)を刊行した。その編纂の中で親鸞聖人の著作の中に、現代の価値観から見れば明らかに身体的、職業的差別言辞と見られるものが多いことに気づいた。偏見は類を呼ぶと日常化して、差別している意識が薄れる。今、我々は『観経』の「是旃栴陀羅」の領解についての課題を問われているが、同様に親鸞聖人の教えを学ぶ者にとっては、このことも問われなければならない。これらの言葉をどのように領解すればいいのか。また、それによって自身や教団に何が問われているのか。それを課題化せず見過ごしてきたことを問いつつ、考えてみたい。まず、身体的障害についての差別言辞を挙げる。
◆生盲闡提:『高僧和讃』の「本願毀滅のともがらは/生盲闡提となづけたり/大地微塵劫をへて/ながく三途にしづむなり」の「生盲闡提」には、次のような左訓が付されている。
①「しやうまうはむまるゝよりめしゐたるをいふ。ふちほふにすへてしんなきをせんたいといふなり」〔生盲は生まるるより盲たるをいう。仏法にすべて信無きを闡提というなり〕(国宝本・『定親全』2和讃篇―119)
②「むまれてよりめしゐたるもの。せんたいはほとけになりかたし」〔生まれてより盲たるもの。闡提は仏に成り難し〕(文明本・『定親全』同上)
この和讃では「本願毀滅のともがら」を「生盲闡提」と譬えている。生盲とは生まれつきの盲人の意である。闡提とは一闡提であり、断善根、信不具足、つまり、成仏する因縁を持たない者であり、それを「生まれつきの盲人」と譬えているのである。また『西方指南抄』には『法事讃』を引用して「そのゆへは、聖教にひろくみえて候。しかればすなわち『修行することあるをみては、毒心をおこし、方便してきおふて怨をなす。かくのごとくの生盲闡提のともがら、頓教を毀滅してながく沈淪す、大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身をはなるゝことをえず』と、ときたまへり」(『定親全』5輯(1)―200)の文の「生盲闡提」に
③「むまるゝよりめしひたり」(同)と左訓が付されている。
この譬えが、善導の『法事讃』に依っているとは言え、和讃や左訓は親鸞聖人の言辞である。
◆無眼人・無耳人:『浄土和讃』の「大聖易往とときたまふ/浄土をうたがふ衆生おば/無眼人とぞなづけたる/無耳人とぞのべたまふ」の「無眼人」に、
①「まなこなきひとゝなつく。もくれんしよもんきやうのもんなり。くわんねむほふもんにひかれたり」〔眼なき人と名づく。『目連所問経』の文なり。『観念法門』に引かれたり〕(国宝本・『定親全』2和讃篇―55)
②「まなこなきひとゝいふ」〔眼無き人といふ〕(文明本・『定親全』同上)と、また「無耳人」には「みゝなきひとゝいふ」〔耳無き人という〕(文明本・『定親全』同上・親鸞の再稿本で顕智書写本の左訓も同様)と左訓が付されている。親鸞聖人は『観念法門』に引かれる『目連所問経』の文と記すが、実際は『安楽集』(『大正蔵』47―14)に引く『目連所問経』に易往・無眼人・無耳人の語がある。宋法天訳『仏説目連所問経』(『大正蔵』24)と『観念法門』にも見当たらない。浄土を疑う人を耳のない人、目のない人に譬えること自体、障がい者差別である。