奇妙な教化論
真宗大谷派の教化論は「法を聞く姿勢」の涵養や聞法の「場の創造」を強調する一方、肝心の説法の質を等閑視する。典型は5月に公表した行財政改革検討委員会報告だ◆同報告の「教化改革に関する事項」には説法の質の向上に関する検証や提言は皆無に近く、結論部で「すでに工夫を凝らした教化活動は行われてきており、『改革』すべきは、住職・坊守・僧侶・門徒がともに聞法の歩みに立つ姿勢や意識にある」として「工夫」の内実を問わない◆ただ、これだと「布教活動に特に問題はない」ということになるし、「教化活動の不振の原因は教化される側にある」とさえ読める。では、なぜこうした奇妙な教化論が生じるのか。筆者は二つの構造的要因があると考えている◆第一は同朋会運動に見られる反技術主義の傾向だ。布教の方法論を追求すると形式主義に陥ると考え、必要以上に技術を軽視する節がある。第二は1981年の宗憲改正で法主を聞法の首位を任じる門首に改めた結果、僧侶の立場を「教化者」から「聞法者」に無意識に改めたからと思われる◆確かに真宗では僧侶も聞法者だ。しかし、教化論の文脈では聞法に先立つ説法の質を最優先に問わなければ教化の実は挙がろうはずがない。「教えを伝える」という僧侶の能動性からナチュラルに目を背けた教化論で有効な伝道活動が展開できるとはとても思えない。(池田圭)