被災地の寺の子らの姿 能登半島地震復興への期待
大阪大教授 稲場圭信氏
東日本大震災から13年の3月11日、気仙沼のある寺で追悼法要に立ち会った。あの日、檀家と地域住民はその寺に避難し、命が守られた。一方で地震と津波で失われた尊い命もある。地域は壊滅的な被害を受けた。そして、寺の子どもたちも避難生活と復興にむけての歩みを共にした。今、その子どもたちは立派な大学生になった。追悼法要後の交流会では、その歩みを振り返って笑い声があった。
元日に発生した令和6年能登半島地震では、東日本大震災をはじめ、これまでの災害の教訓が生かされ、迅速な津波避難行動があった。津波警報が発令されて高台にある寺社等に避難した人もいる。
筆者は能登半島地震の被災地に1月6日に入り、その後も7回、24日間、被災地で活動している。29年前の阪神・淡路大震災以降、様々な被災地で活動をしてきたが、今回は道路がいたるところで寸断されていてアクセスが悪く、初動の段階で人手が足りなくて大変厳しいというのが実感だ。一方で、外部からの宗教者の支援活動は迅速であった。それは、被災地に寺社教会等の宗教施設があり、その宗教施設の本山や本部、そして経験ある宗教者がプッシュ型で水などの救援物資をもって支援に入ったこと、また、被災しながら被災地の宗教者が情報を他の地域の宗教者に共有できたからである。今、能登半島地震の被災地で宗教者が、物資支援、家屋整理、炊き出し、足湯などをしている。社会福祉協議会や自治体、様々な団体と情報共有しながらの活動もあり、大変信頼できるものである。そして、間違いなく被災地で社会的力となっている。
七尾市の少し高いところにある寺は津波避難場所として40人ほどの避難者を受け入れた。余震が続く中、境内地で待機し、夜になり避難者たちが一時避難場所の寺から指定避難所の小学校に移動して寒さをしのげた。このような大災害時には行政から職員が派遣されたりすることも無いし、連絡も来ない。地域住民が情報収集して、慎重に判断して行動した。その後、その寺が物資集積所となり近隣の人が水など物資を受け取り助かった。開かれた寺のあり方に、超宗派、宗教の有無を超えて外部支援の輪が拡がった。そして、この災害の経験で課題も今後の取り組みも皆で話し合う場が寺に生まれた。
筆者らの調査では、災害種別で津波対象の避難場所に指定されている寺社等宗教施設は全国で1732カ所あることが分かっている。しかし、今回の能登半島の自治体もそうであるが、全国の地方自治体のマンパワーや予算は限られ、それらの施設への備えや災害時の対応は難しい。過疎化や高齢化の問題もあり、課題は山積だ。しかし、課題解決だけでは人は集まらない。地域は活性化しない。楽しみながら取り組むことも必要であろう。
七尾市の寺の子どもから聞いた「地震怖かった」との声。筆者は、研究室の学生たちとこの寺に行き、地域の子どもたちと遊び会をした。笑顔と元気な声が寺、境内にあふれた。子どもはこの震災とその後の体験をもとにそれぞれが素敵な大人になると信じている。気仙沼の寺の子どもたちのように。