「奥深くて開けている」能登へ 西谷啓治の思想と震災復興の方向
東京大教授 伊達聖伸氏
元日に起きた能登半島地震から1カ月が経った。石川県内では1月末までに238人の死亡が確認されており、死因は圧死が最多ながら、凍死も30人以上で、寒空の下で救援を待っていたのかと思うと痛ましい。被害の全貌はいまだ明らかになっておらず、政府や県知事の初動の遅れも指摘されている。地震前には経団連会長が志賀原発を「一刻も早く再稼働を」と述べていたことも空恐ろしい。災害大国なのに避難所での生活の質が担保されていない。ボランティア自粛論さえ広まり、支援は不十分と言わざるをえない。
本紙「時事評論」の寄稿者でもある大阪大の稲場圭信氏らによる「災救マップ」などの活動には敬意を表したい。宗教施設が避難所としても機能することを社会に示してきた意義は大きい。1月17日付本紙によれば、輪島市の重蔵神社では社殿全壊にもかかわらず、被災者への配給活動がなされているとのこと、頭が下がる思いである。一方、1月26日付本紙は、寺社にある文化財窃盗の懸念から被災寺院の画像などをSNSに投稿しないでとの呼びかけを伝えている。被災地で発生する盗難や性犯罪の話を聞くと、暗澹たる気持ちになる。
大変な年明けになったと思いながら、少ない情報にやきもきしていたとき、筆者の大学の同僚で、「小国」に関する共同研究を進めてきた張政遠氏が、宗教哲学者の西谷啓治の出身地が能登町であることを知らせてくれた。張氏は香港出身で、東北大で西田幾多郎を中心とする日本哲学を修め、3・11後の被災地のサポートにも取り組んできた。西谷は「奥能登の風光」と題する珠玉の小文を、小さい頃、珠洲にある宗玄の家に泊まったときの記憶から書き起こしている。西谷の伯母が嫁いでいた宗玄酒造のことだが、今回の地震では土砂崩れで大きな被害が出た。
西谷啓治の名は、大東亜戦争を正当化した悪名高き「近代の超克」論とも結びついており、私も敬遠しがちだが、「奥能登の風光」を収めた『宗教と非宗教の間』は若い頃に読んで感銘を受けた。西谷の古くからの友人である臼井二尚によれば、西谷は関東大震災にも動じなかったようだし、「奥能登の風光」執筆の頃には進んでいた能登原発建設計画に明示的に反対した様子も見られないが、『宗教と非宗教の間』では原爆や水爆よりも恐ろしい存在の可能性が示唆されており、人類には「大ひまがあく(大閑が空く)」ことが必要であるとの主張が展開されている。
西谷啓治の一周忌に、上田閑照は能登町宇出津を訪れた。山と海が交互に立ち現われる景色に同行の辻村公一が「奥深くて開けている」と感慨を漏らしたのを、上田は風景にも西谷にも当てはまる言葉と受け取っている。能登町の記念館では、早稲田中学時代の西谷の作文を見た。日本を鳥に喩え、「紀伊能登は我が国に於ける双翼」と述べ、翼の一毛としての役割を果たしたいと決意表明している。空を飛翔する鳥は震災復興の象徴になりうるが、イメージが一人歩きしても実質がともなうわけではない。「奥深くて開けている」ことの意義が共有される復興に協力したい。