いのちの電話③ 「助けてくれる―」一つの“光明”
「いのちの電話」に助けられ、和歌山県白浜町で気楽な生活をした末に四国遍路の途中で亡くなった小山さん(仮名)との付き合いから、藤藪庸一牧師はいろんなことを学んだと感じる。「僕にとって、人の人生に関わるにはこうでなくてはという価値観に衝撃を受けた」。ほかに道はなかったのか、生き方を変えるためにもっと強く関わるべきだったか、そうではないのか。だが「あんな生き方もあるんだ」とは思う。自死念慮者に手を差し伸べるには強い覚悟がなくてはならないのだ。
小山さんは路上暮らしをしている時、高齢女性が服を着たまま海に入っていくのを見つけて救助した。「死にたい」という女性に「牧師が助けてくれるよ」と説得し、「先生、来てくれ!」と教会に連絡してきた。白浜に死を決意して来たそんな人を何人も藤藪牧師につないだ。四国遍路も「旅人に親切にしてくれるそうや」と期待して出掛けたという。「思いもかけず人生で転落したが、もともと優しい心を持った、助け合いということが分かる人でした」と牧師は話す。
自死念慮者が三段壁に来る理由を、「自殺の名所」との評判で「確実に死ねる」と思う一方、景色のきれいな場所でという思いもあるのではと藤藪牧師は考える。ではなぜ電話をかけてくるのか? 「『死にたい』という気持ちは、先の見えない、どうしようもない苦しみから逃れたいということ。本当は死なずに済めばと思いながらも、判断できないほど追い詰められている。しかし現場まで来て怖くなると正気に返り、看板を見て『相談したらひょっとして助けてくれるかも』と思われるのです」。その思いが闇の中の一つの“光明”であり、だからこそ電話を受け、助けるのだという。
そういう人は相談できる相手が誰もいないことが多い。自死を決意させる要因の多くは孤独、周囲に家族や人がいても心が通じぬ孤立だと藤藪牧師は経験から思う。夫に先立たれた空虚感から家を捨て流浪の旅の末に自死に来た高齢女性がいた。そんな人を牧師は「最後まで面倒見る。死ぬまでここにいていいよ」と共同生活に受け入れる。花を育てるのが好きなその女性は病気がちながらも周囲の人たちに溶け込み、「ここにいるといつでも誰かと話せる」と庭のバラやユリを皆に見せるのを楽しみに生きた。昨年5月、花壇で作業中に発作で倒れ牧師に看取られて昇天した。「天国まで送ってあげるよ」との約束通りだった。
絶望の淵にいる相手を決して諦めず共同生活で寄り添うことは、その人をあくまで信じて一緒にそばにいること。夜眠るときに「明日は朝ご飯食べようね」などと小さな約束を繰り返すこと。もし逃げ出してもとことん捜し、戻ったら「心配したよ」と伝えること。そして、他者を少しでも気に留めて声を掛けるのが大事だという。
65歳の男性は三段壁で3日間、トイレの水だけを飲んで断崖に座り死ぬことを思い続けた。決心はつかないまま衰弱して野垂れ死にを考えた4日目の夜のこと。通り掛かった若い女性が、何を思ったのか男性に2千円を手渡し「ばかなこと考えたらあかんよ」と告げて去った。男性はその金で食事を取って気を取り直し、いのちの電話に連絡してきた。「あれで生かされた。一生忘れない」。共同生活を経て地元でホテルの仕事に就き、10年後にがんで亡くなるまで、男性は繰り返し牧師にそう話していた。
(北村敏泰)