『顕正流義鈔』にみえる真慧上人の念仏思想(2/2ページ)
高田短期大仏教教育研究センター研究員 島義恵氏
これらの邪義への返答をみていくと、まず「自身の口で称え、身に拝み、救われるという思いを持つことは自力である」という邪義に対しては「もとより当流のこころは、往生をば仏に任せ行者の所作には称名せよと勧むれば(中略)これ我が心にたのみ、口に称うるには似たりといえども、弥陀如来の施し与え給う行、おこさしめ給うところの心なり。かるがゆえに他力の行・他力の心というなり」と、念仏も信心も阿弥陀仏より廻向されたものであるがゆえに他力であると述べている。
次に第2の「念仏は第十九願、諸行往生の義である」という邪義に対しては、第十八願文、同成就文を引用し、さらに「大師は称我名号と釈し、元祖は念仏本願と明かし、祖師は称名正定業と判ず。経釈分明なり」と善導大師、法然上人、親鸞聖人の領解を示し、念仏が第十八願に誓われた往生行であると述べている。また「信行不離、機法一体はこの宗の己証、みなもとこの願のこころなり。信というは本願の名号を聞きて疑わぬを言う。行というは疑わぬ心にて名号を称うるを言うなり」と、念仏と信心の不離はこの宗独自の領解であることも述べて、高田教団の独自性を示している。
第3の「絵像木像は無益であり、また念仏の血脈も明らかにする必要はない」という邪義には、親鸞聖人が稲田の草庵で仏法弘通の大恩に報いるために聖徳太子の形像を拝していたことを述べて「泥木素像と言うは、凡夫の肉眼をもちてよく感見申し、無上の勝利を得」と絵木像が凡夫の教化に役割を果たしていること、親鸞聖人も大切にされていたことを述べている。また念仏の血脈については、親鸞聖人が『選択本願念仏集』の書写を許されたことと、高田派の第二世真仏上人と第三世顕智上人が『顕浄土真実教行証文類』を親鸞聖人より賜ったことを示すことで、念仏の血脈の重要なことを述べている。そして「自今已後も一宗一流の行者、弥陀・釈迦・善導・源空・親鸞の御本意のごとく、一心一向に専ら名号を称念し、さらに余行をまじえざれ」と述べており、阿弥陀仏が念仏を本願に誓い、釈尊が説き示し、善導大師から法然上人、そして親鸞聖人へと称名念仏が相伝され、高田においても親鸞聖人から真仏上人、顕智上人へと教えが守り伝えられて自身にまで至り届いていることを誇りとしていることがわかる。また、このような念仏の伝統を重んじる姿勢は、真慧上人が与えた、善導大師、法然上人、親鸞聖人そして高田派歴代の名が記された名号があることからも窺い知ることができる。
以上が邪義に対する真慧上人の回答であるが、これらの邪義の出処について真慧上人は「尚々、この三ヶ条の難勢、いずれも真しからずといえども風聞に任せこれを記す」と述べており、風の噂として明確にはしていない。真慧上人においてもこれらの邪義が蓮如上人ひいては本願寺教団の教えだとは考えていなかったようである。先に述べた吉崎での本願寺教団との軋轢の中で生じた教義の混乱を収めて、高田教団の正統性を示すための書物が『顕正流義鈔』であった。
真慧上人の生涯は、本書の冒頭に「それ一向専修の行者はひとえに万行諸善をさしおき、疑心自力の心を捨てて、一筋に本願をたのみ、専ら名号をとなうべきなり。そのゆえは弥陀の弘誓は四十八なれども第十八の願を本とす。釈尊また〈一向専念無量寿仏〉と説き、諸仏は舌をのべて専持名号の説を証誠し給う。そのほか、天竺の菩薩・唐土の祖師・和朝の人師、心を尽くし言葉をあらわして勧進す」とあるように、本願に誓われた名号を信じて念仏を称えるという「他力念仏」の法脈が重要であり、この法脈を代々相承し勧化してきたのが高田であると示すことと、末尾の「祖師親鸞上人の御流れを受けん者、この疏の上に不審あらば、我慢偏執の心をやめ、穏便無事の姿にて旅宿の草庵に来たりて尋ねよ。鸞上人の御在世の掟に任せ、真仏・顕智の御相伝の旨をもちて、経論釈を証として決判に及ばん」と、この教えを次代へと正しく相承していくのだという責務を果たさんとされるものであったと言えよう。