『顕正流義鈔』にみえる真慧上人の念仏思想(1/2ページ)
高田短期大仏教教育研究センター研究員 島義恵氏
高田派第十世である真慧上人(1434~1512)は、第九世定顕上人の子息として誕生した。その行実は『代々上人聞書』『高田ノ上人代々ノ聞書』や、五天良空が著した『正統伝後集』、専修寺や末寺に残された史料によってうかがい知ることができる。
若年の頃は下野高田周辺の諸宗派寺院で勉学を積んだと伝えられている。長禄3(1459)年の頃、下野高田を出て近江坂本の妙林院に入り北陸や伊勢を化導し、寛正5(1464)年に定顕上人が示寂したため住持職を継職している。文明4(1472)年39歳の時に『顕正流義鈔』を著し、明応3(1494)年61歳の時には、問答形式で教義や儀礼について答えた『十六問答記』を著している。
文亀2(1502)年69歳の時には応真上人へ住持職を譲られるが、その後も伊勢国内で精力的に活動を続けており、名号や「御書(ごしょ)」、自らが考案した簡易葬式用具「野袈裟」と「棺腰巻」を多くの念仏道場に与えている。永正元(1504)年71歳の時には、高田門徒の心得を記した「永正規則」を著し、これを皮切りに「御書」の制作にも取り掛かっており、僧侶、門徒の教化に尽力している。これらの功績は現在の高田派の礎となっており、当派では真慧上人を中興上人と尊称している。
同時代に本願寺の発展に尽力した蓮如上人と真慧上人は、19歳の差があったが、書簡のやり取りや真慧上人が京都へ赴いた時には大谷に滞在するなど、親鸞聖人の教えを受け継ぎ教団を率いる者同士交流があり、互いに門徒の取り合いをしないことを約束するなど友好な関係であったと言われている。
しかし、住持のいなかった三河の高田寺院に蓮如上人の縁者を招いたところ、ついに本願寺へ帰入する事態が起こり、約束が破られたことによって両者に不和が生じることとなったと伝わる。さらに寛正6(1465)年に本願寺が比叡山延暦寺によって破却された、いわゆる「寛正の法難」の際には、高田教団は本願寺と別であることを延暦寺へ訴えており、これによって本願寺とは完全に決別していくこととなる。その後も近江を追われた蓮如上人が吉崎へ居を移し御坊が繁昌すると、越前や加賀の高田門徒と押し寄せる本願寺門徒との間に争いが生じており、加賀富樫氏の家督争いにおいても敵対している。そして後に各地で起こっていく一向一揆においても対立関係は続いていくこととなる。
『顕正流義鈔』は、蓮如上人の吉崎御坊建立の翌年である文明4(1472)年に著されている。執筆の理由について「彼等が誤りのほどをも知らせ、また往生の信心をも治定せしめんため、且つは破邪顕正は仏の本意、捨謬開悟は法の大途なれば、紙をとり筆を染めて、祖師相承の義趣に順じ年来披見の聖教に任せて、型のごとく草案註記す」と述べられており、その書名が示すように「邪義を破し、正しい流義を顕かにする」ことを目的とした書である。
本書では、三つの邪義を取り上げてこれらを真慧上人が受け継いできた高田教団の流義で正していく形をとっている。その邪義は、
①念仏によって救われようというのは自力であるという主張。
②念仏によって救われようというのは第十九願の心であり、諸行往生の義であるという主張。
③絵像や木像は方便であり、それを頼んでも益はなく、また代々相承されてきた念仏の血脈をただす必要はないという主張。
といったものである。