立教開宗700年のころの真宗教団(1/2ページ)
龍谷大教授 中西直樹氏
3月以降、東西本願寺をはじめ真宗各派本山で、親鸞生誕850年・立教開宗800年慶讃法要が執行されている。立教開宗法要が執行されたのは、1923年の立教開宗700年法要が最初である。100年前、なぜ真宗教団各派は、立教開宗法要を修することになったのであろうか――。その背景と、当時の真宗教団の状況と課題について、歴史をひも解いてみたい。
18年に第1次世界大戦が終わり、景気は次第に悪化しつつあったが、いまだ好景気の余韻の残る翌年に和辻哲郎の『古寺巡礼』が刊行され、奈良・京都の社寺をめぐる観光旅行が大きなブームを迎えた。また大正期は、倉田百三の『出家とその弟子』(16年発表)をはじめ、親鸞を題材とする戯曲・小説などが多数発表され、一種の「親鸞ブーム」と呼ぶべき現象がおきていた。
各種旅行案内書も数多く発行されるようになり、奈良・京都は修学旅行先としても定着しつつあった。22年11月には、鉄道省が『お寺まゐり』という書籍を刊行した。その冒頭には、近畿圏の仏寺を紹介し、旅行者の参考とするために刊行したという趣旨が記され、さらに、本願寺派前法主の大谷光瑞の協力を得たことが記載されている。
この書籍は、翌年の法要を前に、本願寺参詣者と鉄道利用客を増やすため、鉄道省と大谷光瑞との間で企画・立案されたと考えられる。法要が始まると、毎日地方から5万人の団体参詣者が京都駅を訪れたという。
法要では、「参詣」よりも「観光」を目的とする参集者が増えたと考えられる。また、時代の変化に対応して、法要の内容・形式も大きく変更された。
その第一には、この法要に際して真宗各派の連合組織である真宗各派協和会が組織され、その協調体制のもとで実施された点を挙げることができる。各派の法要は、大谷派が4月9~15日、興正派が11~17日、木辺派が14~18日、佛光寺派が15~18日、本願寺派が15~21日まで修したが、各派連合主催による新たな行事も数多く実施された。
そもそも真宗各派の連合組織は、1900年10月に妙心寺で各宗管長会議が開催された際、誠照寺派管長の二條秀源の提案を受けて、同年12月に大日本真宗各派同盟倶楽部として発足したのが最初であると考えられる。しかし当時は、仏教公認教運動や宗教法案への対応をめぐって大谷派と本願寺派が激しく対立しており、本願寺派と木辺派とが参加を見送った。このため、翌01年4月、真宗8派による大日本真宗同盟倶楽部が建仁寺で発会式を挙げたが、自然消滅していったようである。
その後、21年10月、立教開宗を迎えるのを前に真宗各派の重役会が開かれて真宗各派協和会が発足した。15年には、仏教各宗派よる大日本仏教連合会も発足しており、真宗各宗派内にも協調の機運が生じつつあったのである。
協和会では、協議の結果、法要に際して、真宗宗歌の制定、児童絵本『親鸞絵ばなし』の作成、京都市公会堂での連合講演会の開催、団体参拝への対応、各派協同の法要ポスターの作成と配布などを決定した。
このうち、京都市公会堂での連合講演会は、4月中旬に4日間にわたって開催され、境野黄洋・梅原真隆・村上専精・高楠順次郎・藤岡勝二・羽溪了諦・山辺習学らが講演した。また15日午前には各派連合旗行列が実施され、京都4本山関係地の小学生・各派日曜学校生徒ら2千人が真宗各派協和会のマークを染めた小旗を持って、東本願寺から興正寺・西本願寺、佛光寺までを行進した。同日夜には、大谷大学・龍谷大学・大谷中学・平安中学の学生数千人による提灯行列が行われた。