立教開宗700年のころの真宗教団(2/2ページ)
龍谷大教授 中西直樹氏
第二に活動写真が盛んに活用されるようになったのも、この法要の時からであった。この法要を契機として活動写真巡回班が組織され、地方での布教・宣伝活動が行われるようになった。本山に参詣しなくとも、映像を通じて地方でさまざまな情報を得ることができるようになったのは大きな変化であった。
21年、牧野省三ら活動写真界の有力者の発起と、日本活動写真株式会社の賛助により「宗教教育写真協会」が設立された。同協会は、活動写真は低俗な娯楽との評価を一新したいとの考えから営利を目的とせず、宗教信念の鼓吹に資するような宗教映画を手がけたいとの願いを抱いていた。同協会からの協力要請を受けた本願寺派は、これに応じ、その作品第1号として蓮如一代記が作成された。
その後も映画作品は作成され、立教開宗に際して本願寺派は、活動写真部6班を編成して各地を巡回公開した。映画種目は「稲田の草庵」「本光坊の巡教」「光りに浴して」「女学校の運動会」「英皇太子の御来山」「宗祖降誕会」などであった。4月から9月までの第1期巡回では、日本全国・満州・朝鮮548カ所をまわり、100万人以上が参集した。10月から12月までの第2期巡回でも約38万人が集まり、その後、映画布教班が常設された。
大谷派でも21年に本山の年中行事や諸機関・設備の撮影を開始し、立教開宗法要期間中には映画班が組織され、連夜にわたり七条工作場で「信の力」「大和の清九郎」などを映写した。また11日には、本願寺派の活動写真部の協力を得て、京都市公会堂で宣伝映画大会を開催し、19日晩には西本願寺門前に出向いて本願寺派の映画宣伝に参加した。
そして、第三に挙げるべきは、日曜学校教師大会・社会事業大会・布教使大会などの各種関係事業団体の大会が法要に併せて開催されるようになった点である。法要は、さまざまな活動を展開する真宗者の交流と情報交換の場ともなっていったのである。
なかでも特筆すべきは女性の主体的参加があった点であろう。第1次世界大戦の勃発後、欧米の産業界は、出征した男性に代わって女性の労働力によって担われるようになった。この結果、女性の社会的地位が向上し、女性解放運動も活発化した。戦後、欧米各国で次々と女性の参政権が認められるようになり、日本にも欧米の状況が紹介され、女性の権利獲得を目指した運動が活発化した。
本願寺派でも婦人会運動が高まりを見せ、同派では、20年に京都女子高等専門学校(現京都女子大学)が開校し、大日本仏教慈善会財団が社会事業研究所女子部を設置するなど、女性の社会参画を促す施策が展開されつつあった。法要では、本山門前広場に婦人会天幕が特設され、女性布教者「女教士」による布教活動が展開された。
大谷派の連合婦人会組織「婦人法話会」でも、法要を記念して本部別館が新築され、多様な記念行事が行われた。
こうした新たな取り組みがあった反面、多額の負債をつくっては大規模な法要と懇志によって、償還していく宗派のありようには世論の厳しい視線が注がれていた。
すでに14年には本願寺派の大谷光瑞が巨額負債の責任をとって法主を退き、大谷派の巨額負債も表面化していた。法要の前年の22年3月に創立された全国水平社は、両本願寺に募財拒否を通告している。『大阪朝日新聞』は、次から次へと大規模法要を企画・執行して金銭を集める本山役員は、まるで興行人のようだと揶揄した。
教団財政だけでなく、伝統的な真宗信仰の在り方も大きな転換期を迎えつつあった。龍谷大教授であった野々村直太郎は、その著『浄土教批判』のなかで、立教開宗のお祭り騒ぎに熱狂する様を批判し、「往生思想を歓迎するの時代はモハヤ恐らく永久に去つたのである」と評した。
このように当時の真宗教団は、教団運営の面でも、伝統教学の面でも大きな転換期を迎えようとしていた。それから100年、これら課題解決に向けた努力は重ねられてきたであろうか――。立教開宗800年を機に、この点も考えてみる必要があると考える。