『一枚起請文』の真髄を求めて ― 「尼入道」異説問題の超克(2/2ページ)
浄土宗教学院会員 佐々木誠勇氏
また、敬首の『一枚起請親聞録』には、4種類の仏道修行者の一例として「尼入道」が掲げられている。さらに、関通の『一枚起請文梗概聞書』には「其の教え偽りならぬ現証を挙げれば、妙照尼の如きは云々」と、「尼入道」往生の実例「妙照尼」を紹介している。いずれも「尼入道」が一語であることを端的に示す資料である。
従前の解釈に見直しを要する資料もある。『愚管抄』(又建永ノ年)などは、接続助詞「つつ」「て」の古形用法を弁えておくべきであり、一休禅師の漢詩「賛法然上人」(教智者如尼入道)も、『無量寿経』を没却した禅宗学匠の解釈に難点がある。浄土門の視座から再解釈すべきと考える。
異説問題の歴史的経緯を俯瞰する研究も手付かずである。拙著『「一枚起請文」における「尼入道」攷』(注①)に詳述しているが、尼入道二語説の淵源をたどっていくと、真宗仏光寺派貞阿の『一枚起請文皷吹』(貞享2年刊)に逢着する。ところが、明治28年になって、思いもよらぬ展開となる。浄土宗小野國松が、冠註付復刻版(『冠註一枚起請文皷吹』)を発刊したのである。これが、事実上、浄土宗に二語説が浸潤した歴史的なターニングポイントとなる。近代に入り、浄土門諸宗に復刻版が流布した影響は甚大である。
その後、貞阿に端を発する二語説は、『仏教大辞彙』(大正3年)の「尼入道」語釈や、戦前の中等教育の『国文教科書』に採録された『一枚起請文』の指導書「教授備考」の「尼入道」解釈にも色濃く反映されている。
問題の本質は現今の異説論議からは見えてこない。我々は、この異説問題を超克して、「尼入道」例示のご本意を探らねばならない。それは、信仰とは何かという宗教の根本課題に迫る問題でもある。
江戸中期に天台宗霊空から専修念仏批判が惹起された時、格好の標的にされたのが『一枚起請文』の「尼入道」であった。霊空の「尼入道劣機論」は、「機」を「知識・理解力」と解釈している。一方、浄土門の先学は「尼入道正機論」で対峙し、「機」の解釈の主軸を「信仰の深さ、ひたむきさ、純粋さ」に置いている。双方の熱い論戦に「二語説」が介在する余地は全くない。
しかし、現代に生きる我々は、尼入道の実像を知らない。また、現代においては、殊更に「尼入道の機」が論じられることもない。尼入道は「無智のともがら」の一事例にすぎないとする見方が一般的であろう。それは、霊空の「劣機論」に通底する。そして、巷談の「女性差別論」もまた、「劣機」を前提とした思考回路による。
法然上人は、何故に『一枚起請文』に「尼入道」を記さねばならなかったのか。「同じうして」とは、いかなる信仰形態をいうのか。その問いに応えることは、『一枚起請文』の真髄に迫る重要課題である。しかし、「尼入道」の比喩的例示に込められた法然上人の情想を感得し、それを過不足のない言葉で表出することは、永遠の課題である。
それでもなお、法然上人のご本意に多少でも近づくために、その糸口を探さねばならない。前掲の「妙照尼」資料の解説文が注目される。関通は、「正シく一文不通の者なれとも、但信稱名して現證明かに來迎を拜み、目出度往生せり。如レ是ノの機を仰信(注②)分とは申す也」、「但直仰信の人第一の正機」(『浄土宗全書』巻九)と述べている。
「尼入道の正機」とは「仰信の機」と思料される。阿弥陀如来を仰ぎ見て、一心に名号を称える尼入道の姿には、何らの思惟、理解、分別作用のない無条件の欣求、只、ひたすらに渇仰する正機がうかがえたのではなかったか。
学問に秀でた僧侶たちが、とかく見失いがちな専修念仏の枢要を説示したものと考えられる。
(注①)私家版、頒価5千円(送料別)。問い合わせは、佐々木=FAX03・6700・8451。
(注②)「仰信〔ごうしん〕」=教えや仏の深意を理解し思案せず、ひたすら仰ぎ信じること。解信の対。(『新纂浄土宗大辞典』)