日宋交流と禅僧 ― 中世禅の再考≪2≫(2/2ページ)
国際日本文化研究センター准教授 榎本渉氏
ただし道元は在宋中ずっと天童寺にいたわけではなく、臨安径山・台州天台山なども巡歴している。そして天童寺に戻った時に出会った新住持の長翁如浄に随侍して得悟を果たし、帰国後はその法を嗣いで曹洞宗を始めた。つまり一門から使命を受けて入宋した僧は、渡航後自らのために巡礼修道を行うことがあり、その成果次第では、帰国後に別教団を立ち上げることもあった。
この事情については、同じく栄西門流として入宋した円爾の例も参考になる。円爾は1235年に入宋し、やはり天童寺に参じた。しかし円爾はまもなく天童寺を出て臨安に移り、上天竺寺・浄慈寺・霊隠寺を歴参した。その最中に退耕徳寧という僧に会い、その師である臨安径山の無準師範を薦められた。円爾は無準に参じると、器量を認められて印可を受け、帰国してからはその法を嗣ぎ、博多承天寺や京都東福寺などの開山となった。円爾は栄西門流の留学先である天童寺には長く留まらず、自らの関心に従って遊歴して新たな人脈を築いたのである。日宋仏教界の人脈は、このようにして深化と拡大を続けた。
円爾は帰国後も連年無準に手紙を送っており、無準もこれに対して返事を送っている。そこにはしばしば「某上人が来て手紙を受け取った」などと書かれており、円爾が入宋僧を継続的に径山に派遣し連絡を取ったことが知られる。円爾の手紙を届けた使僧には祐・音・豪・能・印などがいるが、最初の3人は道祐・覚音・一翁院豪という僧に該当する。彼らも宋に着いた後は、それぞれの関心に従って巡歴や修行を行っており、お使いの役目のみのために入宋したわけではない。また無本覚心・無象静照という僧は、円爾から紹介状を受けて入宋し、径山に入ったとされる。入宋に当たって便宜の提供を受ける代わりに、何らかの使命を請け負っていたのだろう。
円爾としては、入宋留学を望む僧に便宜を提供して連絡役とすることで、径山との縁を継続することができたし、逆に南宋仏教界とのパイプを持っていたことは、入宋を望む若い僧を惹きつける要素にもなったと考えられる。門流維持のために入宋僧が再生産される構造ともいえよう。東福寺で行われた宋風の規式や法要は、こうして組織的に派遣された入宋僧のもたらした情報によって整備されたものであった。
入宋僧たちが帯びた使命としてしばしば確認できるものに、序跋(著作の前後に付ける文)の獲得がある。南宋禅林での文学的営為への理解が進むとともに、日本でも高僧の語録・詩文集が、その遷化後に編纂されるようになった。これは門人たちが師を顕彰し門流を権威づけることを目指したものだが、その目的のためにはできるだけ高名な僧の序跋を得ることが期待された。そしてその場合、日本僧よりも宋僧の方が望ましいと考えられることが多く、しばしば宋に使僧が派遣された。
早い例としては蘭渓道隆が、1261年に門人らを派遣して、自らの語録に宋僧の序跋を求めさせたものがある。ついでその2年後には寒巌義尹が、師の道元の語録を持って入宋し、諸師に序跋を乞うている。さらに元代には、師僧の伝記(行状・塔銘等)や頂相の像賛を求めるために入元する僧も現れ、その例は枚挙にいとまがない。
特殊だが重要な任務として、宋元僧の招聘も忘れることはできない。たとえば蘭渓道隆が建長寺で入滅した1278年、北条時宗は蘭渓門弟らを派遣して、蘭渓に代わる名僧を招聘するように命じた。この結果鎌倉では無学祖元が迎えられ、後に円覚寺開山となっている。以後も元代中国からは、多くの禅僧が入元僧に連れられて来日し、日本禅林の指導者となった。
このように日本で活躍した高僧たちの周辺には、多くの入宋僧・入元僧がおり、門流や外護者から任務を託されて留学の機会とした。それがすべてのケースに当てはまるわけではないだろうが、史上有名な禅僧たちの中には、先述の道元(栄西の大斎開催のために入宋)や絶海中津(夢窓疎石の碑銘を得るために入明)のように、使僧として渡航し留学して成果を上げた者も、確かに少なからず含まれていたのである。