日宋交流と禅僧 ― 中世禅の再考≪2≫(1/2ページ)
国際日本文化研究センター准教授 榎本渉氏
日中交流史において、12世紀末は一つの画期である。平安時代の日本では、大宰府が貿易船を管理下に置き、天皇が許可して初めて貿易が認められる(天皇が許可しなければ帰国が命じられる)という体制が採られた。また貿易船を利用した日本人の出国にも、天皇の許可が必要とされた。実際に海外渡航を求めるのは僧侶に限られたが、現実に許可を得るには天皇に奏請するための縁が必要という事情もあり、10~11世紀において許可の頻度は、20~30年に1回程度にとどまった。僧侶の入宋は1167年以後、後白河―平氏政権下で一時的に盛んになるが、この段階でも入宋したのは、やはり中央と関係のある僧侶に限られる。
ところが1185年の平家滅亡後、僧侶の海外渡航が活況を呈し始める。この頃には大宰府を介した公的貿易管理が見られず、貿易船が自由に往来を始めるが、おそらくこれと表裏の関係で、人の出入りに関する規制も行われなくなった。当時は貿易船が日宋間を連年往来しており、これに便乗する形で僧侶の入宋が行われた。特に1240年代以後になると、僧侶の往来が連年確認できるようになる。日宋貿易の盛行は、入宋僧の継続的な輩出を可能にした客観的条件の一つだった。
この新たな動向を反映して入宋した僧侶の初期の例として、1187年の栄西(第二次入宋)と1199年の俊芿が挙げられる。いずれも帰国後に、南宋で体験した仏教のあり方を参照して、当時の日本で軽視されていた持戒・禅定の実践を重視し、その基盤となる集団生活の環境を整備することで、日本仏教の改革を試みた。現状を批判するために南宋仏教をグローバルスタンダードとして持ち出した、と言い換えてもよい。
このたび『中世禅籍叢刊』で公刊された数々の典籍は、彼らが日本に持ち込もうとした教説がどのようなものだったのか、またはそれを日本仏教界の中でいかに位置付けようとしたのかを伝える、思想的格闘の痕跡である。
日本国内で南宋仏教の再現を目指した諸門流は、絶えず最新の南宋仏教と接点を持つべく、僧侶を南宋へ送り出した。入宋僧を特に多く輩出した門流としては、1200~30年代に栄西門流、1210~50年代に俊芿門流、1240~70年代に京都東福寺の円爾門流、1250~70年代に鎌倉建長寺の渡来僧蘭渓道隆の門流がある。
この中で栄西門流の入宋僧について見ると、参学先が判明する例については、いずれも慶元(寧波)の天童寺に参じている。これは栄西が天童寺で学び、帰国後に木材を送って千仏閣を建てた由縁が関係する。たとえば1225年に南宋で撰述された『日本国千光法師祠堂記』には、栄西(千光法師)の事跡を記念して天童寺に建てられた祠堂の由緒を祠堂に刻んだもので、千仏閣の件を含む栄西の略歴とともに記されている。『祠堂記』が撰述された契機は、栄西の忌日である某年(1224年頃か)7月5日に行われた冥飯の大斎である。その主催者である明全は栄西の法嗣で、会子(紙幣)千緡を出して大斎を行ったという。ただし明全はその後客死し、その遺骨は道元が日本に持ち帰るところとなった。
会子千緡とは、もしも銅銭に両替して日本に持ち込めば千貫文、現代の価値ならば1億円に相当する額であり、明全個人の喜捨とは考えられない。明全一行は、栄西門流の代表者として天童寺に派遣されたもので、巨額の大斎開催費用は、門流が拠出したものだろう。明全一行は日宋の教団を媒介する使僧であったといってもよい。栄西門流からはこれ以前から天童寺に僧侶を留学させており、たとえば道元は天童寺で、五根房や隆禅など先に入宋していた同門の日本僧と会っている。栄西門流は天童寺との関係を保ちながら、一定の頻度で僧を派遣し続けていたとみられる。栄西門流は留学先として天童寺を確保すべく、祠堂を建て大斎を開催し『祠堂記』を祠堂に刻むなどして栄西の記憶の風化を防ごうとしており、そのためには多少の出費も厭わなかった。