親鸞の「即得往生」観(2/2ページ)
真宗大谷派西念寺住職 豅弘信氏
これに対して親鸞はそれらの文言いずれにおいても「得往生」を「往生を得」と訓んでおり、親鸞は法然の往生観をそれと知りながら、あえて「即得往生」を「如来の回向によって信心を獲得すれば、(今現在)即時に往生を得る」と主張していることが知られる。
これが、氏がどこにも存在しないとした「『現世往生』を証明するため試みとしての『親鸞の読み替え』」であると筆者は考える。
また氏は『一念多念文意』の「得は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、(中略)すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり」の文を、香月院深励師の「得はうべきことに定まりたこと」(『無量寿経講義』)との注釈に拠って、「親鸞は、正定聚のくらいにつきさだまるということが、命終後にうべき浄土への往生が今この身に『約束されたものとして得られた』ことを意味するもの、と註解している」と述べている。
しかし親鸞の用語例では、未来に何かを得ることが約束されたことを語る際には、「うべきことえたり」ではなく、「うべきことをえてんず」という表現を用いている。
親鸞は『一念多念文意』に「歓喜」を「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり」「うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」(将来、得られるであろう〈滅度、大涅槃〉を、必ず得られるであろう、と前もって喜ぶ心を「歓喜」と言う)と抑えている。
氏は、本願成就文の「即得往生」が臨終往生ではないと誤解されないために親鸞は『一念多念文意』で注釈を施したとされるが、氏が親鸞の文章表現それ自体に忠実ではなく、江戸期宗学というフィルターを通してしかそれを見ようとしていないことが窺われる。
親鸞の往生観は臨終往生であると主張する氏の論拠は、もはや前掲の『一念多念文意』文中の「正定聚」の語に親鸞が付した「おうじょうすべきみとさだまるなり」の注(左訓)のみとなった。
しかし氏は、この「往生すべき身と定まる」の左訓を強調しながら、同じ『一念多念文意』の「正定の聚」の「かなら(必)ずほとけ(仏)になるべきみ(身)となれるとなり」、「等正覚」の「まこと(真)のほとけ(仏)になるべきみ(身)となれるなり」「ほとけ(仏)になるべきみ(身)とさだ(定)まれるをいうなり」、「大涅槃」「無上大涅槃」の「まこと(真)のほとけ(仏)なり」といった左訓には一切言及されない。「必ず滅度に至る身」「必ず大涅槃を超証すべき身」との了解が親鸞における「正定聚」(等正覚)の第一義であるにもかかわらず、である。
紙幅の制限上詳しい論証は割愛せざるを得ないが、例えば『浄土三経往生文類』(広本)に「大経往生というは、(中略)現生に正定聚のくらいに住して、かならず真実報土にいたる。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆえに無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆえに大経往生ともうす。また難思議往生ともうすなり」と述べることから見ても、親鸞は「往生」を従来のような「ある一時点(命終)での他界への転生」、つまり「点」ではなく、「真実の信楽を獲る人は、現生に正定聚の位に住して、必ず真実報土に到って無上涅槃の覚りをひらく」という一連の「過程」全体、正定聚に住して開始される不退転の「道程」(大涅槃道)、つまり「線」として述べている。(筆者は親鸞が「往生」理解におけるパラダイムシフト〈常識的・支配的な解釈の変更〉を試みたと考える)
この「往生すべき身」を「臨終往生が約束された身」ではなく、「『必ず大般涅槃に至る道を歩むこと』(=往生)のできる身」と解釈することこそ真に親鸞の意にかなった了解であると筆者は考えるのである。
小谷氏の反論に期待しつつ、今回の論考の筆を擱くこととする。