松下幸之助による寺院への寄付活動(2/2ページ)
PHP研究所主事 坂本慎一氏
松下が多くの寺院に寄付をした理由は、一つは日本の伝統文化を尊重したことがあげられよう。彼のこの種の活動は仏教以外にも、神道大系編纂会会長、伊勢神宮崇敬会会長、飛鳥保存財団初代理事長、霊山顕彰会会長など十指に余る。そしてその言説を見ると、次のような点も読み取ることができる。
得心できなかった 本願寺派門主の言
松下家は明治になってから浄土真宗本願寺派に転宗しており、先祖代々の宗派は松下自身も知らなかったようである。門主であった大谷光照氏とは、門徒の一人として昭和23(1948)年4月5日に本願寺で会った。京都市内でも路上で餓死者が出るほど困窮した終戦直後の状況を踏まえ、こうした時こそ仏教者は世を救う活動をすべきだと訴えたのである。しかし門主は、世を救う活動より、「生死観を究めるということのほうが大事」(『松下幸之助発言集』第四十二巻)と答えたという。松下は強い不満を感じ、後々にいたるまでこの逸話を繰り返し口にしている。
昭和26(1951)年9月、松下は自身が主宰する月刊誌『PHP』第50号に「人間宣言」を発表した。「人間はまことに偉大な存在である」と述べ、人間の尊厳を強く主張したのであった。これは、本願寺に行って得心できないものがあったので書いたと述べている。
同じころ大谷氏は自著の『教を仰ぐ』で『教行信証』信巻の一節を引き、「人間というものは、如何に行いすましても、結局清浄なるもの真実なるものには容易に近づき得ないばかりでなく、生活の現実は却って逆に虚仮の連続であって、まことにあさましいという外はない」と説いていた。松下の「人間宣言」は、門主に対する不満が込められていたと解釈できる。これは昭和47(1972)年5月「新しい人間観の提唱」に発展し、「まことに人間は崇高にして偉大な存在である」と主張したのであった。
仏教の多様性求め 衰退した宗派補強
明治初期の廃仏毀釈において、仏教界がもっとも痛手をこうむったのは、政府が寺領を没収したことである。山林経営によって経済的に成り立っていた奈良の寺院や天台宗、古義真言宗や根来寺、臨済宗の中小の寺院などは、托鉢や乞食も禁止されたことで収入を得る道が突然断たれ、壊滅的な被害を受けた。檀家からの収入もあり、末寺も多かった浄土宗や臨済宗妙心寺派、曹洞宗、日蓮宗、真言宗智山派・豊山派などは比較的軽傷で済んだと言えよう。これらに対し、檀家からの収入のみで成り立っていた浄土真宗は難を逃れ、明治時代の経済発展に乗って仏教界を席巻することになる。
こうした情勢を受けて、「浄土真宗は教えが近代的で優れているから隆盛になった」とか、「密教などは前近代的で迷妄的であったから衰退した」という主張が、広く説かれることになった。同様の考えは、戦後日本のインド哲学においても暗黙の前提になっていたようである。『歎異抄』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を重視し、人間を「あさましい」と説く大谷氏の思想は、本人が意図する以上に影響力を持ったのであった。
松下家が明治になって浄土真宗に転宗したのは、おそらく廃仏毀釈の影響と思われる。しかし松下にとって、門主の考えは妥当だと思えなかった。実際のところ、浄土真宗が寺領没収の影響を受けない経済構造だったのは、教えの優秀さが要因というよりは歴史上の偶然であろう。松下は衰退した宗派を補強することで、日本仏教の多様なあり方を求めたと考えられる。
現在まで、廃仏毀釈の研究は決して十分ではない。戦後財界人による寺院への寄付活動を調べると、その損傷が戦後まで残っていたケースが多いことに驚かされるし、現代の奈良の寺院や密教寺院が観光事業に力を入れるようになった歴史的経緯についても、あまり関心が払われていない。さらに言えば、近年は廃仏毀釈を軽視する宗教学者も多く、浄土真宗に偏った見方ではないか省みる必要がある。松下による寄付活動が宗派を超えて行われたように、われわれはより広い視野で仏教を見るべきであろう。