松下幸之助による寺院への寄付活動(1/2ページ)
PHP研究所主事 坂本慎一氏
浅草寺雷門の再建 名の非公表申し出
松下電器(現パナソニック)の創業者であった松下幸之助(1894~1989)は、生涯にわたって仏教各宗派に多額の寄付をした。年間納税額1位を合計10回(歴代1位)記録した松下は、戦後日本においてもっとも財を成した人物であり、仏教界への寄付においても群を抜くと言える。
一般に日本の財界人は、寄付行為をあまり公にしたがらない傾向にある。昭和33(1958)年12月11日、松下が浅草寺雷門の再建費用2千万円以上(現在価値で約1億5千万円)を寄付すると申し出た際、貫首の清水谷恭順氏に対し、「なるべく名前を出さないで下さい」と述べている(『雷門昭和再建誌』)。財界からの寄付で通常知られているものは、一部にすぎないと言えよう。
松下による寄付の例として、ここでは天台宗の寺院を二つ紹介したい。
京都で松下は三十三間堂奉賛会信徒総代として活動した。同じ明治27(1894)年生まれで親友でもあった太田垣士郎・関西電力社長が中心となり、財界有志で妙法院を盛り立てようとしたのである。
三十三間堂は、明治初期の廃仏毀釈により甚大な被害を受けたのち、昭和初期から仏像の修復作業が始まり、昭和30年代になってようやく観光事業を積極的に展開しようとしていた。妙法院門跡の三崎良泉氏の記録によれば、松下は昭和32(1957)年12月2日、100万円(現在価値で約600万円)を寄付している(『風來門自開』)。昭和37(1962)年3月20日に松下は、「三〇〇〇万円の銀行借金を寺債によって返済するという話であったので、自分も賛成し、うち一〇〇〇万円(現在価値で約5千万円)をもってあげる旨伝えた」と述べた記録がある(PHP研究所内部資料『松下会長日誌』)。同年9月14日、松下は同寺院より宸翰の進贈を受けており、これで寺債抹消という形にしたのであろう。同年12月26日、三崎氏はPHP研究所を訪問し、親交を深めている。
平泉の中尊寺には、茶室・松寿庵を寄付した。寄付当時の貫首であった今東光氏とは、さかのぼる昭和30(1955)年ごろにはすでに面識があり、懇意になったのは昭和35(1960)年、雑誌『財界』2月1日号の対談がきっかけと思われる。
昭和42(1967)年7月12日、今東光夫妻は裏千家の千宗室氏(現千玄室氏)とともに、PHP研究所を訪れている。松下はこの時、中尊寺に茶室を寄付したいと申し出たのであった。金額は不明であるが、同じころ四天王寺に寄付した茶室・和松庵はひと回り大きく3020万円だったので、2千万円以上(現在価値で約1億円)と推定される。
松寿庵は単独の建物ではなく、本堂や庫裡と直接つながっており、寄贈は寺院の増築工事を負担した形であった。中尊寺もまた、廃仏毀釈の傷跡を戦後まで引きずっていたのである。今氏は「松下さんによって初めて東北六縣に誇る名席が残る」とし、「請ふ。わが山房に来って茶を喫せられよ。すなはち四疊半の茶席にあって横に四世界を鋪き、竪に一乾坤を蓋う底を掴み給へ」と述べていて(「松寿庵の記」『松下真々庵茶室集録』)、これによって在家の人を集めようとした意図が読み取れる。二人はその後も長く親友であった。
数々の寄付の内容を見ると、集会所となる施設(高野山大松下講堂など)や観光資源となる建造物(四天王寺の極楽門など)を寄付することが多い。寺院がこれらを積極的に活用して人集めを行い、観光収入が得られるように初期投資を援助した形である。
真言宗への寄付では、高野山金剛峯寺、紀三井寺、信貴山朝護孫子寺、醍醐寺、泉涌寺、根来寺に寄付の記録やその形跡がある。松下電器の会社としての菩提寺は、高野山西禅院としていた。
奈良の寺院では薬師寺に多額の寄付をしており、松下が提唱して高田好胤管主が創始した「日本まほろばの会」は、「薬師寺まほろば塾」として今日も継続されている。末寺の少なかった臨済宗大徳寺の復興にも協力し、管長代務者の立花大亀氏とは終生懇意であった。海外布教の援助としては、南禅寺の柴山全慶管長、正眼寺の梶浦逸外管長、米ロサンゼルス高野山別院の高橋成通主監があげられる。