初詣における改憲署名と「天皇陛下お言葉」(2/2ページ)
千葉大大学院人文社会科学研究科教授 小林正弥氏
神道の観点からみても、最重要なものと「祈り」が一般的に認識されれば、「祈り」を行う皇室祭祀に実質的な公共性が巡幸とともに認められることになる。多くの国民が共通にこう理解すれば、現行憲法の象徴天皇制のもとにおいて法的には私的な皇室祭祀が実質的には公共的な意義を持つわけだ。神道界では、皇室祭祀が法的に「私的」なものとされていることに反対して改憲を主張しているが、このような見方が広く共有されればそのための憲法改正は不要になるだろう。
天皇陛下は、「伝統の継承者」として「いかに伝統を現代に」生かすかという問題意識を話され、喜びと悲しみの時を「人々と共に過ごして来た」ことや「国民と共にある自覚」を強調された。「祈り」などの神道の「伝統」を「現代」の現行憲法のもとで生かす道をこのメッセージは示しているのだ。それは、改憲を要する「国体」の考え方ではなく、人々と「共に過ごし」「国民と共にある」公共的な象徴天皇の姿である。天皇の「祈り」を神社界が民間の立場からの「祈り」によって補完すれば、戦前のような「国家神道」ではなく「公共的神道」ないし「国民の神道」がこのメッセージを中核にして築かれうると思われるのだ。
神社本庁設立に大きな役割を果たした葦津珍彦は、祭政一致を回復するために改憲論を主張すると同時に、靖国神社の国家護持を当初は願っていた。しかし神社自らの判断でA級戦犯を合祀して民間の神社として自立する道を選ぶと、本紙『中外日報』の連載「公式参拝の問題点」(1980年5月6~15日)で国家護持論の放棄を潔く表明し、公人の公式参拝の主張に変更したと明言した。国家護持論は靖国神社の意向に基づくものだったので、神社自体が民間の宗教法人として歩むことにした以上はその主張を止めていると「告白」したのだ。
天皇陛下ご自身のメッセージは、このような方針転換を神社界に促すものではなかろうか。「大御心」という「天皇意思」に「日本民族の一般意思」を葦津は見て、生涯それを探求した。「天皇お言葉」は神道的に言えば「大御心」の公式な表明に他ならない。もし「天皇意思」が旧「国体」の回復にあるのならば、あくまでもそれを目指すのが神社神道の考え方かもしれない。ところが「天皇意思」は象徴天皇制としての「お務め」が継承されることであることが明らかになった。
葦津の論法を適用すれば、靖国問題でその主体たる神社の意思に即して考えたように、天皇制に関しては最大の主体である天皇ご自身の「意思」を神社神道は尊重すべきではなかろうか。しかもその「大御心」は「日本民族の一般意思」とすら考えうるものとされている。現に国民の大多数が生前退位を支持し、皇室典範の改正も支持しているのだ。「大御心」は生きている天皇個人の意思よりも高く、歴代天皇(皇祖皇宗)の世襲の意思だという議論も葦津はしているが、多くの歴代天皇が譲位されているから、この論理による退位反対論も成立しない。
民主主義において主権者は国民であり、政治的決定は天皇の意向に従う必要はない。けれどもこと神社神道においては天皇陛下ご自身の熟慮された意思表明は軽視できないはずだ。「大御心」に現れた「日本民族の一般意思」を尊重すれば、旧「国体」への回帰という主張に代えて、国民主権・民主主義と調和する象徴天皇の「まつりごと=お務め」の継承を願うことになるのではなかろうか。もしかすると、これは「国体」の更新であり、新しい「国家体制」の確立への道かもしれない。