東アジア梵鐘の様式と技術 ― 日本鐘に朝鮮鐘の技術導入か(2/2ページ)
元・京都橘大教授 五十川伸矢氏
さて、日本鐘は、どこからやって来たのであろうか。前述のように日本の初期鐘は7世紀末ごろのものであり、中国では唐代である。こう言うと、多くの方々は、梵鐘は遣唐使によって日本にもたらされたのだろうと考えられるかもしれないが、そう簡単には言えないのである。
まず、当時の唐都で流行していた中国鐘は、日本鐘とはかなり異なった様式の「荷葉鐘」であり、中国南部に分布する「祖型鐘」が日本鐘の様式のもととなったことを坪井氏が解明されている。
また、筆者が中国や日本に残っている唐鐘の技術を観察した結果、古い唐代の祖型鐘の技術は、古代の日本鐘とは異なることがわかってきた。すなわち、日本鐘の外型は一貫して横分割法によって製作されているが、古い唐鐘の鐘身は縦分割法または一体構造で仕上げられている。縦分割法とは、桃太郎が生まれる時に、おばあさんが桃を包丁で上からスパッと切開するシーンを想起していただければよい。こんな鋳型分割法は日本鐘にはあり得ない。しかも、中国鐘の外型分割には縦横分割法もあり、日本鐘の様式の手本にならなかった唐代の荷葉鐘が、この縦横分割法によるもので、中国鐘の湯口の形態は、日本鐘のA型やB型の長方形とは異なって、C型の丸い形が基本なのである。
このようにして、中国の唐鐘と日本鐘を、様式と技術において比較して、日本鐘成立に関する連絡を検討した結果、唐鐘と日本古代鐘が、技術において、すんなりとつながらないという事実を発見することとなった。そこで、視点を変えて韓国や日本国内に所蔵されている朝鮮鐘の技術を検討するという作業を行った。
日本鐘が「袈裟襷」と呼ばれる縦横の帯によって区画を設定しているのに対して、朝鮮鐘は、上下の帯の間の広い空間に、乳郭・撞座や天人などの単位紋様を一定の原則に沿って、独立して配置する点で大きく異なっている。また、その技術は、「失蠟法」といって、原形を蠟で製作し、それをもとにして外型を起こすという方法であると固く信じられてきた。このため、日本鐘と朝鮮鐘に、様式と技術の両面において近縁的関係を想定する人は、あまりいなかったと思われる。しかしながら、予断と偏見を捨て、実際に朝鮮鐘の技術を検討してゆくと、新羅鐘や高麗前期鐘のなかに古代日本鐘と類似する外型横分割法やA型湯口やB型湯口を発見することができた。なお、朝鮮鐘には外型縦分割法はみられない。
このように、日本鐘は中国南部の鐘の様式を継承し、なおかつ朝鮮鐘の技術を導入して成立したという複雑な経緯を想定できる。このほか、唐末以降の中国鐘では、外型横分割法がきわめて優勢となってゆき、現代においても江南地域では、この横分割法によって梵鐘が製作されている。これは、唐末ごろに、中国鐘の技術に日本鐘や朝鮮鐘の影響があったためだろうと考える。
このように、東アジアの梵鐘は、互いに様式と技術において影響を与えつつ形成されてきたとみるならば、見えてくるものは東アジアにおける、頻繁で活発な文化交流の世界である。そこには遣唐使による文化導入や国風文化の興隆などの既成の歴史概念ではとらえきれない現象が存在するのではないかと筆者は考えている。これらについては先ごろ刊行した『東アジア梵鐘生産史の研究』(岩田書院)に詳述したので興味をもたれた方々は参照されたい。