東アジア梵鐘の様式と技術 ― 日本鐘に朝鮮鐘の技術導入か(1/2ページ)
元・京都橘大教授 五十川伸矢氏
童謡「夕焼け小焼け」に「山のお寺の鐘が鳴る」と歌われるように、梵鐘は日本人にとって時間や季節を感じさせる重要な風物として定着しており、除夜の鐘を聞かないと新年が来たという実感が沸かない人も多いだろう。この梵鐘は、仏教の功徳を広めるための梵音具として中国で発明されたものである。梵鐘研究を開拓した考古学者・坪井良平氏(1897~1984)が一生をかけて、現物にあたって調査を行い、その変遷や鋳物師の研究をまとめられた成果は、日本考古学の精緻な研究の金字塔とされている。
筆者は、今から三十数年前に京都大学吉田キャンパス内の遺跡発掘において、平安時代の梵鐘鋳造遺跡の調査を偶然に担当したことがきっかけとなって、日本各地の同様の鋳造遺跡から日本鐘の鋳造技術についての研究を続けてきた。そして、坪井氏による先行研究に導かれつつ、この10年間、新しい視点で現存する梵鐘を観察してきたので、その成果の一端を紹介させていただきたい。
梵鐘をどのようにみるかは、それぞれの人々の梵鐘に対する関心のもちかたや、その得意とする分析方法によって異なっていてしかるべきであるが、筆者は、梵鐘を様式と技術の二つの要素によってとらえることとする。
まず、梵鐘の様式とは、梵鐘の鐘体の寸法や形態、鐘体の表面に付されている凹凸の装飾、および文字による銘文など、梵鐘の外形を形成している数多くの装飾的な要素の集合体をいう。これらの装飾的な要素は、坪井氏が、日本鐘や朝鮮鐘について網羅的に資料を集成され、その梵鐘の年代や鋳物師の特徴として抽出された基本的な要素である。
一方、梵鐘の技術とは、鐘体を形成している金属材料、鋳型を作る造型方法、金属を溶解して鋳型に流し込む鋳造方法など、梵鐘製作に関わる様々な要素である。これらの技術的な要素のうち、筆者は、外型の分割法、溶かした金属を鋳型に流し込む湯口の形態について分類し、個々の梵鐘について、それらの技術を確認する作業を続けてきた。
坪井氏の研究によれば、日本の最古の鐘は、7世紀末に作られた京都市の妙心寺鐘、福岡県太宰府市の観世音寺鐘、奈良県葛城市の当麻寺鐘などがあげられる。それらは撞座(撞木が当たるポイント)を鐘身の高い位置にもち、華麗な装飾の帯をもった大型品であることが特徴である。鐘身部分の外型は上下に横分割しており、ドーナツ状の鋳型を2段重ねていると言えば理解しやすいと思う。また、2個の湯口が笠形(天井部)の端部に位置している。奈良時代の鐘は、先の初期鐘とあまり変わらないが、平安時代に入ると、徐々に撞座が低い位置に移り、乳郭と呼ばれる装飾のあるものも現れた。外型分割は変わらないが、2個の湯口は笠形の上部に設定されるようになる。平安時代中期に位置づけられる奈良県五條市の栄山寺鐘は、こうした特徴があるとともに、序と銘を完備した陽鋳銘文をもつ名鐘である。
平安時代末期の12世紀後半になると、日本鐘は大きく変化する。鐘体もかなり小型化し、鐘体を懸垂するための龍頭と撞座の方向関係が変化し、撞座はさらに鐘身の下部へと低下してゆく。外型は、鐘身を3分割するものが基本となり、湯口が1個のものも現れた。神戸市の徳照寺鐘や京都府笠置町の笠置寺鐘などは、この時代の代表選手である。こうした変化は、鎌倉時代に定着してゆくが、これを坪井氏は「定型化」と呼んで、その後の日本鐘の基本形態ができあがったと評価されている。
日本鐘の湯口は、長方形を示すものが多く、A型(長方形の長辺の方向が龍頭の長軸と平行するもの)とB型(直交するもの)に分かれる。これは、鋳造工人(鋳物師)の流派の違いを示すもので、古代のA型は北九州または奈良の鋳造工人の癖、B型は京都や滋賀あるいは近畿北部周辺の鋳造工人の癖であろうと筆者は考える。