21世紀の仏教の幕開き ― 空・無我を徹底解明する仏法を(2/2ページ)
現代における宗教の役割研究会(コルモス)理事・事務局長 佐々木正典氏
先生は、現代世界は一つになりつつあり、科学技術の圧倒的支配によって、機械的格一化され、この科学技術の徹底的支配の前には、今までの文化や哲学・宗教は反抗することができないと言われた。科学技術によって世界が規定されていけば、本質的に宗教や哲学を受けつけないし、それらは歴史を動かす力にならない。事実、宗教や哲学は現実より締め出しを食らっており、なんとかして科学技術に適応しようかということに浮沈している。しかし、世界が科学技術によってつくられていくことは、実は大きな問題であり、科学的に認識され、技術が形成される世界で、我々人間はどのようになっていくのか、人間が人間として生きていけるのかを考えねばならない。
そして、このような世界をつくり出したのは、近世以後、中世にはなかった人間が自立的主体になったことにある。そして、それはプラトン・アリストテレスに始まり、近世では、デカルト・スピノザ・ライプニッツ・カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲルによって完成されたが、ヘーゲルの死後、シェリングの「なぜ理性があって非理性がないのか」の批判の前に、以後、理性に基づく哲学はあらわれることはなかったのである。
しかし、その後、今日に至るまで、世界は理性的であることをやめたのではなく、現実世界は理性によって科学技術は飛躍的な発展を遂げたのである。
科学的にものを見、技術的に制作することによって、人間は史上はじめて自立的主体に立つことができたのである。ところが、一切の主体に立った人間は、絶えず主体的地位を確保しないと、主体的地位から転落してしまうので、自立的主体的に生きない人間はムチで打たれ続けている。
つまり、今の世界は自転車である。自転車はペダルを回し続けなかったら倒れてしまうのである。だから自立的主体性号のペダルを、ふんぞりかえってお浄土ならぬ無間地獄に向かって回し続けている。
仏教は、インド・チベット・中国・韓国・日本や南方仏教国において、種々変遷してきたが、それらは同一の仏教という地盤であったが、20世紀になって欧米の宗教や自立的主体性、科学技術の進入によって、それらの猛威との悪戦苦闘の歴史が20世紀の仏教であった。
そこで21世紀の仏教は、現代世界の宿業の大地に立って、欧州ではニーチェとハイデガー、日本では魂の行方の求道者西田幾多郞先生や『宗教とは何か』を残して下さっている西谷啓治先生等々の先生方を継承して、現代の自立的主体性や科学技術の徹底的支配の陥穽を直視し、20世紀の自立的主体主義とオサラバし、仏教の空・無我の徹底的解明に精進し、学仏大悲心の心をもって、仏教に基づく立場から発信できる仏教教団や仏教学・各宗宗学の出現が待たれる。
西谷先生は科学技術は業であるとおっしゃっていたが、科学技術こそ現代世界の地球大の最大の業である。即ち、現代人は自分自身自縄自縛の状態にあり、現代世界は世界大、宇宙大の人間の自縄自縛に陥っている。21世紀の仏教徒は、現代世界の宿業の大地に立って、現代世界の業を絶えず見据え続けなければならない。
21世紀の仏教の幕は、今、開かれ、人々は新たなセリフを耳を澄まして待っている。歴史的にできたものは、歴史的に滅んでいく。無縁の大悲に包まれて、また新しい歴史をつくっていったらいいのである。