21世紀の仏教の幕開き ― 空・無我を徹底解明する仏法を(1/2ページ)
現代における宗教の役割研究会(コルモス)理事・事務局長 佐々木正典氏
著書に『親鸞と教団の復活―ポスト・モダン教学』『儀礼奉還』、共著に『ポスト・モダンの親鸞』『真宗儀礼の今昔』など。
一昔前なら20世紀で死んで往けた身が、現代医学のおかげで、とうとう後期高齢者となって21世紀まで生き延びてしまったが、私を導いて下さった有縁の師は、ほとんど死なれた。寂寥うたた深し。そこで、足利淨圓先生の御句をもじって「亡き師らと 語らんとして 言葉なし 御名を称えて 問いつ答えつ」と、世捨てられ人よろしく、知恩院さんのふもとに「自照庵」を結びて、「ありがたや 終の住処が 南無の里」と念仏三昧の余生を送っているわが身である。
『中央公論』は2001年の元旦号で『「宗教の世紀」の幕開き』を宣言し、21世紀を予言したが、この宮一穂編集長(1月で辞任された)の最後の卓見は見事的中。9月11日、ニューヨークの「世界貿易センタービル」が崩壊した「アメリカ同時多発テロ事件」が惹起し、昨冬の過激テロ集団IS(「イスラム国」)の自爆や人質殺害事件が続いている。中世のユダヤ・キリスト・イスラームの近親憎悪の再来かと思われる世界の出現である。
特にイスラームをめぐっては、日本人には縁が薄かったので、いったい何がどうなっているのかさっぱりわからないカオス状況を呈している。
そして、今年は終戦70年。戦後の日本は敗戦から立ちあがり、今日見られるような、またもや、いびつな経済大国の仲間入り。しかし、戦前生まれの身にとっては、今の日本は、私の生きてきた国とは全く違った国になった感深し。
さらに、他国に例を見ないスピードでの、多産多死の大半の国にはない少産少死という、過去の人類が未だ経験したことのない悲しき超高齢化社会となってしまった。そして、とうとう人口学者から、次世紀には日本民族は絶滅するというご託宣をうけ、ついに我々は絶滅危惧種のお仲間に入ってしまった。また、古都京都ではバスや地下鉄、祇園街をぶらつく若者たちは、何やら小さな画面を凝視し、しきりに指を動かしている。それはもう、人間とは異質な新生物の群にしか見えない。
20世紀の100年間、仏教教団や仏教学者は欧米に学び、懸命の対応を重ね、近代教団への脱皮、客観的かつ主体的方法論に基づく論文の山を築き上げ、世界に冠たる地位を確立されたが、悲しいかな、悟りを開いて成仏した人は一人も出世しなかった無仏の世紀であった。
前世紀の仏教学者や宗学者の大半は、研究対象が仏教や宗学であったにすぎない「人文科学者」であった。「仏学栄えて仏法滅ぶ」と嘆いていた老学者の嘆異の声が耳底を離れない。主体的な教団や教学からは僧伽や宗学は生まれない。西洋哲学を学んだ上での空・無我の立場の徹底的究明を成就する仏法のみが21世紀の十方世界と十方衆生の救済と解放の道となるであろう。
昭和38(1963)年、星野元豊先生が龍谷大学学長に就任され、「往相回向と還相回向」の特殊講義が中断されてしまった。そして、その代講に、京都大学哲学科の辻村公一先生の「西洋哲学と仏教」という講義がなされた。当時、円熟の境地に達しておられた上田義文先生の「仏教の人間観」という名講義と同じ時間だったので、大半の学生は上田先生の講義を聞きにいった。それで、辻村先生の講義を聞いたのは、ほんの2、3人、最後まで聞いて、リポートを提出したのは、私一人だけだったという得がたい経験であった。
辻村先生は、私一人のため、熱を込めて、私に哲学とは何であり、今後の仏教学徒が取り組むべき課題を教えて下さった。その講義ノートは、私の生涯を導いていただいた宝物である。