無能和尚の生涯と奇瑞伝説 ― 日課10万遍の念仏行者に(1/2ページ)
山形県河北町・浄土宗誓願寺住職 鈴木聖雄氏
東北地方に称名念仏が伝播をみたのは、10世紀も半ばの頃である。その証左は福島県会津の空也(903~972)による八葉寺開基に求めることができ、その後も同地の融通寺開山などをもって定着していったことがうかがえる。しかしながら、その拡散はあくまで穏やかなものであり、奥羽一円に浸透することはなかった。
また、これら2カ寺の建立は、年代的にも中世以前で、鎌倉仏教の一宗である法然(1133~1212)の「浄土宗」開宗以前のことであった。従って、東北への口称念仏の流入は、法然門下の金光(1154~1217)を待たねばならなかった。
時代はくだって、江戸時代も中頃になると、浄土宗の寺院は477カ寺に増幅していた。口称念仏の浄土僧やその近辺において、奇瑞や不思議と呼ばれる現象が起こり出したのもおよそ江戸中期の頃からである。これらの動向は、『高僧伝』や『往生伝』等に編まれ、世に流布されていったが、現在にあっても古書店より求めることが可能であり、寺院においては収蔵している場合も多々あろうと思われる。それらの中から、東北地方で起こった奇瑞現象とその中心を成す捨世派僧侶の一生を追ってみたい。
その名は、良崇無能という。彼の一生は『無能和尚行業記』二巻(以下『行業記』)や、『無能和尚行業遺事』一巻、『無能和尚勧心詠歌集』一巻、そして『近代奥羽念仏験記』三巻、「勧化道場奇特集」(以下「奇特集」)によって知ることができる。無能は、1683(天和3)年、陸奥(福島県)石川郡須釜村の矢吹家に生まれ、14歳で発心(僧侶になることへの決心)し、仏前で念仏を称え、「阿弥陀経」や「普門品」などを読誦していた。
1699(元禄12)年、周囲の反対を押し切って、17歳の春には伊達郡桑折の浄土宗大安寺に身を投じた。得度の後、5月には檀林(僧侶養成道場)である磐城専称寺に入寺、修学と修練の日々を送っている。翌18歳の時には、出羽(山形県)の名刹・亀岡大聖寺に7日間の参籠をし、文殊菩薩の助けを借りて、早く自行化他(自らのために仏道を修行し、さらに授かった仏徳をもって他の人々を救うこと)の所願が達成できるよう祈願する。修学においても、下総の飯沼弘経寺や江戸増上寺など、同宗派とはいえ他の檀林においても学究を深めていく。
1704(宝永元)年5月、無能22歳の時、入行中の専称寺本尊の前において、1日1万称の口称念仏を誓約し、また、岩瀬郡(現須賀川市)大栗村の阿弥陀堂にて7日間の断食念仏を行じたりと、念仏行者へ傾注していった。翌1705(宝永2)年、専称寺21世良通より宗脈と戒脈を伝授され、一人の浄土僧となるも、寺を継承するつもりもなく、伊達郡川俣に小庵を結び、遁世の日々を送る。27歳の頃には、1日の念仏の回数が6万遍を数える行者となっていく。また、持戒を固くし、常座不臥、即ち身体を横に臥すことなく、睡眠も壁に身を当てて寝入ったという。昼夜を分かたず墨衣を着ての念仏三昧であったから、食事や身支度は門人がこれを支えている。
1712(正徳2)年の元旦には、日課8万4千遍を称えることができるようになり、以降、日々を口称念仏の中で過ごしていく。翌、正徳3年4月、無能31歳、川俣の庵において自ら男根を断つが、これは唐の青龍寺僧、釈光儀に倣ったものと、伝記は伝えている。1カ月後、傷も癒えた頃には、日課10万遍が可能となっていった。
彼の生涯は、1719(享保4)年1月2日で終焉するが、発心より入寂するまでに称えた念仏の総数は、およそ3億6930万称であったという(『行業記』)。驚くべき数字であるため、疑う者もあったのであろうか、伝記では、数取り器である数珠の形や、その記録の仕方などを図を使って解説している。回数を書面に記して数えていくという専修念仏者のあるべき姿をも伝えている。