無能和尚の生涯と奇瑞伝説 ― 日課10万遍の念仏行者に(2/2ページ)
山形県河北町・浄土宗誓願寺住職 鈴木聖雄氏
無能にまつわる奇瑞現象は、1713(正徳3)年8月より起こっている。この年、3年前に逗留した羽州(山形県)天童三宝寺からの要請で、「四十八夜夜念仏」を興行。その内容は、宗祖法然の著した『選択集』講釈に始まり、日課念仏の誓約、つまり、参加の者が自ら500遍、1千遍など称えることを阿弥陀仏の前にて誓うもので、その約束として無能染筆の名号符が授けられるという法式である。この符は、自家の仏壇内に置かれたが、当初の不思議現象は、これらより発している。水色に輝く光明が差したり、仏・菩薩が現れたりの現象が度々起こったというのである。瑞相は、その後の法談においても見られ、無能の肩や背後から現れるといったものであった。これらの不思議現象は、小冊子にまとめられていく。
ところで、無能の布教は、この天童三宝寺以来、1717(享保2)年5月までの3カ年と、年数的には実に短い間であった。また、巡錫範囲も羽州村山郡の浄土宗寺院や陸奥(福島県・宮城県)の伊達郡・信夫郡・安達郡・相馬郡の同宗寺院が主であった。ところが、法談に臨まんと集う者は、3~4キロ離れた村々からも参集し、少ない時で1千人を超え、多い時は2万人に及んだという。この間の法座数は496回にのぼり、日課誓約の者は、16万9007人であったことを記す(「奇特集」)。思うに、当時2万人の聴徒が1カ所に留まることは不可能であったろうから、離れた所から、通り過ぎるだけの無能を拝顔した人もいただろう。
以上の法座は、各寺7日間にわたって行われたが、集落の要請で、再度にわたるケースも見られる。あるいは、他宗の住持までもが参会し、この奇瑞を体験している。そこで、今一度不思議現象の内容を取り上げてみると、2番目に多いのが霊夢感得であった。これは、名号符を受けた受者の夢に阿弥陀三尊をはじめ、地蔵や観音、そして聖僧が現れるといったものであり、極楽の情景や、花園に導かれる夢などを載せている。霊夢の場合は、ほどなく安らかな往生を得ており、無能の法談(勧化)の目的は、本来この臨終念仏にこそあったと解すべきである。
先にも述べたように、現実の体験として見たもの(奇瑞・現瑞拝見)、夢に見えたもの(霊夢・瑞夢感得)、疾病が治ったこと(現益・利益)等の報告は、会所寺院の住職を通して無能のもとへと届けられた。中には、同席した近隣寺院の住職・総代までもが連署捺印して送ったものもあり、今に遺存されている。これらの報告は、1260カ条に及ぶという(「奇特集」)。
1717(享保2)年5月、無能は安達郡本宮に巡錫、日輪寺に逗留中、おこり(マラリア熱か)を患い、この頃の庵であった伊達郡北半田に戻っている。一時回復をみるが、翌年には身体の衰えも日増しに悪くなり、12月25日、死期を感じ、身体も横に臥して念仏を称えている。1719(享保4)年1月2日に入寂、37年の生涯であった。滅後、土葬されたが、後年荼毘に付される。多くの舎利(輝きのある小さな粒)が現れ、各地で舎利信仰を生んでいった。
無能の死後、間もなく刊行されたのが先述の版本であったが、それらが流布されると、結縁の寺院や堂宇には無能像が祀られ、1月2日の命日には数珠廻し等での「無能講」が結ばれ、会所となった寺堂には、2メートルほどの六字名号碑が建立される。また、受者の持つ名号符は、各家の墓石に刻まれるなどして、その信仰は、今日に伝わっている。