成熟社会と宗教の役割 ― 仏教の教えが力を発揮する時代(2/2ページ)
筑紫女学園大学長 若原道昭氏
このように経済の収縮とともに量の成長から質の成長の時代へと移行していかなければならないという成長型から成熟型への価値観の転換、成長推進から成長抑制へ、成長から均衡へ、成長から成熟へという思想は、世界的には1970年代に盛んに主張されはじめた。それから40年が経ち、今、「持続可能な適正規模の成長」「真の豊かさを実感できる成長」「格差化された経済発展の現状を是正しうるような成長」が、世界の共通課題となっている。やみくもに成長するための方法を追求するのではなく、価値ある正しい経済成長とは何かを考えるべき時代なのである。
しかし「アジア最大の成熟社会」と称される現今の日本社会で、果たしてその語にふさわしい内実がともなっているかとなると、空疎感を禁じることはできない。鷲田清一氏は内田樹氏との対談集の中で、今日の日本社会を「成熟した社会なのか、それともただの幼稚な社会なのか」と疑い、「みんなが幼稚なままでやってゆける社会」こそ最も成熟した社会であろうかと述べているが、このような苦言もその成熟社会の内実の不足を指摘する一例であろう。
地球規模の経済統合というグローバル化の進行とともに繰り広げられてきた経済的繁栄競争の中で、私たちは欲しい物やサービスがいつでも手に入る豊かで便利な生活が実現したかのように錯覚し、知らないうちに思い上がった暮らしが身に染みついてしまっている。他方では次々と新たな問題が生み出され、しかも容易にその解決の糸口を見出すことができないという不透明感と閉塞感、停滞感が社会全体に広がっている。
このような私たちの社会の有り様を厳しく顧みる契機となったのが、2011年3月の東日本大震災ではなかったか。そこには、人々のつながり合い、助け合い、支え合い、分かち合いの精神の大切さ、その互助精神による活力あるコミュニティーの再生、科学技術の限界と資源浪費型の生活の行き詰まりが露呈したことなど、成熟社会への転換にとって貴重な教訓が与えられている。私たちは経済的繁栄の恩恵を享受しながら、その繁栄の裏側で様々な歪みが生み出される過程に自らが加担してしまっていたこと、私たちの無自覚な日常生活そのものが世界を改変し毀損していたことに気づかされたのである。
顧みれば、人間だけをすべての生き物の中で特別扱いする近代の人間中心主義とその人間の自己中心性を容認し、人間の欲得や強欲さの暴走を許し、人間の際限のない欲望にあわせて無限の経済成長を遂げようとしてきたのが、近代化であった。欲望こそが技術発展と経済成長の原動力であり、消費は美徳であるとされて、大量の資源を使い最大の生産と最大の所有と最大の消費で、最大の幸福を得ようとしてきたのであった。
しかし、今やその限界があらわになっている。この問題を有限な地球の内で根本的に解決していくためには、私たちの欲望の方を抑えて生きるしかない。そして強欲さの抑制は私たちがその意識をもつことなしには実現しえない。それは仏教や諸宗教が説いてきたところであった。だから仏教は、欲望の追求をめざす近代化の奔流の中では、これに逆行しこれを妨げる時代遅れの教えだ、前近代的な迷信だと非難されることも、これまでにはあった。しかし人間が人間本位・自己本位なあり方から脱却し、自然の一部として共生と平和、心の平静と安心を求めて生きるという仏教の教えこそ、今、世界が成熟した段階に到るために必要とされている。
仏教が説いてきた価値観や生き方がその力を発揮しなければならない時代が到来しているのであり、それは仏教を説く側の姿勢にかかっている。