空海「いのちの思想」―「一切衆生は、これ我が四恩なり」(2/2ページ)
東京大名誉教授、空海学会幹事長 竹内信夫氏
「散華」というブッダ賞賛の仏教儀礼がある。「散華」とは、文字通り「華」を「撒く」演劇的所作であり、ブッダの恵みを、生きとし生けるものに余すところなく与えるための擬似的演技である。「一切衆生、是我四恩」の一句は、さまざまな言葉に変奏されて、その散華のように空海の著作の随所に散りばめられている。この一句こそ、空海思想の精髄と空海密教の核心を表現するものである、とわたしは考えている。
空海の言う「一切衆生」とは、すべての人々というだけではない。いのちあるもののすべて、それが「一切衆生」である。例えば、『性霊集』巻9に見える「蠉飛蠕動、無不仏性」(注1)や「排虚沈地流水遊林、惣是我四恩」(注2)という空海の言葉がそれを教えてくれる。わたしのいのちは、いのちあるものすべてに恩を受けている、と空海は言う。
「四恩」は『大乗本生心地観経』(中国「偽経」の一つ)の説くように、そして歴代の坊さんたちが時に声を大にして説法しているように、「四恩とは父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩」、などでは断じてない。「虫けら」と呼ばれているものにさえ、わがいのちは支えられている。空海が「四恩」という2字で表現しているのはそのことだ。
空海が「一切衆生」というとき、その4字には、すべての生命体の平等と共存を積極的に肯定する広大無辺の思想が織り込まれている。そこにこそ、現代に通用する空海思想の神髄がある。1200年前にすでに、生命世界の全体を一つのシステムとして捉え、その緊密かつ精妙な共存関係によって個々の生命体は生かされているのだ、と空海は喝破している。それは現代生態学の科学的知見に外面的には似ているかも知れない。
しかしエコロジーは、生物学的視点に立つ限り、主体性を欠き、客観的観察に終始するほかない。空海は、そのことを主体的に自覚することを求める。すべてのいのちが共存し、互いに助け合っている。だから、それはわたしたち一人一人は、大きな生命世界の一員である。その自覚のうえに、具体的にわが身の生き方を考えることを空海は促している。現代においても、否、生命世界の大規模な破壊が地球規模で行われている現代においてこそ、「一切衆生、是我四恩」の自覚がわたしたちに求められているのではないのだろうか。
この小さな惑星の上で生命世界の単純化、即ち破壊が加速している。「弘法大師」の中世夢物語に酔っているときではない。その夢から覚醒し、生命世界の調和ある全体性を取り戻すための努力が、それに向かう歩みが求められている。空海の真実を知ることから、わたしたちの一歩は踏み出せるのだと、わたしは信じている。空海の真実に即して、わたしたちは空海とともに再び歩み始めることができる。なぜなら、空海の言葉のなかには、今なお、宇宙論的とも呼び得るいのちの思想が脈動しているからである。
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注1=「蠉」は地面をはうもの、「飛」は空中を飛ぶもの、「蠕」はうごめくもの、「動」はうごくもの。すべての生命体の総称。「無不仏性」、仏性たらざる無し。
注2=「排虚・沈地・流水・遊林」は、空を飛ぶもの・地に潜るもの・水に泳ぐもの・林に遊ぶもので、生命体の総称。「惣是我四恩」、これらすべては我が四恩である。