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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏

3 教父思想における無心の愛の社会的展開

以上の考察から、聖書思想における憐れみ・愛や信仰を理解するために、無心や場所的論理、意識の深層といった東洋的視点が大きな助けとなる点を、「中動態」という媒介項に着目することで明らかにした。最後に、「憐れみに突き動かされる」神の働く場所になることを求める霊性が、歴史学的観点から見ても、キリスト教以前のギリシア・ローマ世界との連続性においては説明できない救貧・看護の新しい価値と実践が生み出されていった点に注目したい。

そのために、まずキリスト教によって「貧者を愛する者」という公的徳目が、全く新しい価値としてギリシア・ローマ世界に誕生したと主張する、古代末期研究の泰斗ピーター・ブラウンの研究を参照したい4949Peter Brown, Poverty and Leadership in the Later Roman Empire. UP of New England, 2002, p. 1.。ブラウンは、キリスト教以前のギリシア・ローマ世界において「偉大なる施与者は、特定の集団に対してのみ施しをすることを期待され、そしてこの特定の集団の定義の中で、『貧者』それ自体は、いかなる位置をも占めてはいなかった」5050Ibid., p. 3.点を指摘する。つまり、裕福な施与者が施与することを期待された対象は、その人の属する「都市」や「都市の市民的共同体」であり、決して「貧者」ではなかったのである5151Ibid., pp. 4-5.。それゆえに、ブラウンによれば真の貧者である「共同体の周縁で生活する貧困化した移民や非市民の貧者たち」は、キリスト教以前の施与の対象にはならなかったのである5252Ibid., p. 5.。このようにブラウンは、共同体の外にいる極貧者に対して行われるキリスト教的救貧の新しさについて指摘しているが、その新しい価値の根源には、第1節で見た、「憐れみに突き動かされて」、律法が創り出す排他的境界線を越境していくイエスの愛の姿があると考えて間違いない。

さらに、キリスト教が公認され、社会的・文化的影響力を強める4世紀において、このような救貧・看護の価値が様々な形で社会の文化や制度に体現されていく。その中でも、バシレイオスとその弟であるニュッサのグレゴリオスにおける救貧・看護の活動と神学は、特筆すべきである。バシレイオスは、368年にカッパドキアを旱魃と飢饉が襲った際には大規模の救貧活動を行い、370年にカイサレイアの司教になった後には、最古の病院の一つとして言及される「バシレイアス」を設立した5353Andrew T. Crislip. From Monastery to Hospital: Christian Monasticism and the Transformation of Health Care in Late Antiquity. U of Michigan P, 2005, p.120.。そのバシレイアスでは、病人に対して無償の専門的医療と看護が行われると共に、孤児、寄留民、貧者に対して宗教を問わず衣食住の提供を含むケアがなされた5454土井健司『救貧看護とフィランスロピア』、創文社、2016年、98頁。

このようなバシレイオスの救貧・看護の活動の原動力を理解するために、彼の修道思想に目を向けたい。バシレイオスは、独居型の隠遁が盛んであったなかで、人間が宗教的完成に向かう道行きにおいて、「苦しむ人と共に苦しむ」愛の交わりを持つことが不可欠であると主張し、共住型の修道院を組織した。この点に関して、バシレイオスは『修道士大規定』で「聖書に書かれている通り創造主なる神は、私たちが互いに結びつくために、私たちが互いを必要とするよう定められた」5555Regulae fusius tractatae, PG (= Patrologiae Cursus Completus. Series Graeca.) 31, 929, 48-50.と述べ、人間の脆弱性や依存性を他者論的観点から肯定的に位置付けている。同時に、バシレイオスは、宗教的完成を目指す修道生活において労働を重視し、他者の必要に応えるケアを中心とするあらゆる労働に「隣人愛」の具体化と「困窮している人々に対する奉仕」5656Regulae fusius tractatae, PG 31, 1025, 9-10.という宗教的意義づけを与えている。

このように修道者間で兄弟的に仕えケアし合う生き方との連続性において、救貧・看護の実践は位置づけられており、「バシレイアス」における医療や看護の重要な担い手は、バシレイオスが組織した修道士たちであった。古代の価値観において労働から解放された自由市民像や自足的な賢者像が理想とされていたのに対して、バシレイオスが依存性を肯定し、ケアを含む労働を宗教的に意義づけたことにおいて、仕えケアし合う他者との関係性に価値を見出す画期的な人間観の歴史的形成を読み取ることができる。

弟のグレゴリオスは、自らハンセン病患者へのケアを含む、救貧・看護の活動をリードすると共に、優れた教会政治家として活躍した兄バシレイオスを突き動かしていた霊性を、神学的に深めていった。この点に関してメレディスは、初代教会から実践されてきた貧者への愛としての慈善が、本格的な神学として展開されるのはバシレイオスやグレゴリオスらを中心とするカッパドキア教父においてであったと指摘している5757Anthony Meredith, The Cappadocians. St. Vladimir’s Seminary Press, 1995, p. 27.

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