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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏

⑵ 無心・中動態と歴史形成の根拠としての自由意志

新約聖書および教父思想を「無心」という観点から再解釈する際、西田幾多郎の言う「純粋経験」と通じることが指摘されているギリシア語の中動態1818同書、104頁。によって新約聖書が、イエスの愛・憐れみを表現している点に注目したい。この「中動態」は、ギリシア語で執筆された新約聖書や教父文学を含む古典文献を研究する者にとっては極めて一般的な文法概念であるが、國分功一朗の『中動態の世界』(2017年)1919國分功一朗『中動態の世界―意志と責任の考古学』、医学書院、2017年。によって日本の論壇で広く認知され、殊におのずから生じる応答的ケアを論じる文脈で広く用いられようになった2020東畑開人『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』、医学書院、2019年、221頁。小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』、講談社、2021年、26-7頁。國分の『中動態の世界』以前に、中動態を共生論の文脈で取り上げた研究としては、宮本久雄『他者の原トポス―存在と他者をめぐるヘブライ・教父・中世の思索から』(創文社、2000年、123-8頁)を挙げることができる。。ただ、國分の議論は、中動態の特徴を文法的に説明するために必要な一次文献への言及にとどまっており、中動態を持つ古典語によって表現された哲学的・宗教的文献に対する踏み込んだ読解に基づく考察は行われていない。また國分は、中動態をめぐる議論のなかで、ハンナ・アーレントが考える「本当に新しいことを始める力」2121ハンナ・アーレント『精神の生活 下―第二部 意志』佐藤和夫訳、岩波書店、2015年、35頁。としての自由意志を否定し、中動態をめぐる議論をスピノザの決定論と関連付けていく2222國分、『中動態の世界』、135-8頁。。確かに國分は、スピノザにおいて「必然性」が、「自己の本性の必然性に基づいて行為する」こととして理解された「自由」と矛盾しないと強調する2323同書、262頁。。しかし、スピノザの決定論(必然性の中でのみ機能する自由論)を受け容れることによって、歴史世界における悪に抵抗する人間の自由の力を否定してしまっていることには変わりない。

それに対して私は、自由意志の思想史的起源を問題にした主要な研究を適切に踏まえれば、中動態の文法・思考は、歴史形成に対して責任を担う人間の自由意志・自己決定力と完全に両立し得ることを本論の考察に入るまえに示しておきたい。まず、ホメロス(前8世紀頃)からプラトン(前427-347年)、アリストテレス(前384-322年)に至るまで、古代ギリシアの文献において自由意志の概念が見出されないという点は、その歴史的起源を問題する研究者たちにおいて広く受け入れられていると言える2424Michael Frede, A Free Will: Origins of the Notion in Ancient Thought. Edited by A. A. Long, U of California P, 2011, p. 2. アーレントは、古代ギリシアにおける意志の不在をめぐる問題を、円環的な時間概念との関連で論じている(『精神の生活 下』、16-22頁)。。その上で、フリードは、自由意志の歴史的起源をストア派に見出し(前期ストアのクリュシッポスは前280頃-207年、後期ストアのエピクテートスは55年頃-135年頃)、その概念が、ペリパトス派、新プラトン主義、さらにはオリゲネス(185頃-245年頃)やアウグスティヌス(354-430年)などのキリスト教思想家たちに受け入れられていくという思想史を描いている2525Frede, op., cit. 。自由意志の意味を広く理解し、その哲学的用語の受容史に眼をむけた場合、このフリードの示す思想史的流れに同意できるが、「すべての出来事は正しく起る」2626マルクス・アウレリウス『自省録』第4巻10。(神谷美恵子訳、岩波文庫、2013年、53頁。)という必然性を考えるストア派の自由理解は、歴史世界を形成していく人間の力という意味を持つに至ってはいない。

この点に関して、アリストテレスのプロアイレシス(選択意思)と先述のニュッサのグレゴリオス(335頃-395年頃)の自由意志を比較して、その決定的な相違を示した、古代・中世哲学の泰斗である今道友信の研究は注目に値する。今道は、「アリストテレスにおける選択の自由とは、行為の目的の自明性においてその目的を実現するための手段選択の自由」2727今道友信『中世の哲学』、岩波書店、63頁。であったのに対して、グレゴリオスにおいては「行為の目的」を決定していく人間の自由が問題にされるようになったと論じている。その上で今道は、「明らかにプロアイレシスは、グレゴリオスにおいては、人が神の創造に協力して神の創造から何か善いものを生産するか、それとも神の創造に背反して何か悪いものを生産するかという分岐点を成す存在論的な力である」と指摘している2828同書、65頁。。さらに今道は、グレゴリオスが、「目的定立に選択の必要を認め」、歴史世界を「創造」する力として、「人間の自由」を「組織立てようとしたおそらく最初の人」であろうと評価している2929同書、66頁。また、ハリエットは、グレゴリオスの自由意志理解を「存在論的かつ創造的な自由(ontological and creative freedom)」として捉え、「その自由の本質的な創造的特性(essentially creative character of that freedom)」を「ニュッサの〔グレゴリオスの〕理論の最も独創的な特徴」の一つとして挙げている(Francisco Bastitta Harriet, An Ontological Freedom: The Origins of the Notion in Gregory of Nyssa and its Influence unto the Italian Renaissance. Brill, 2023, p. XXIII.)。。もちろん、初期キリスト教の思想史をより詳細に見ていけば、グノーシス主義などの同時代の決定論と対決したエイレナイオス(130頃-200年頃)やアレクサンドリアのクレメンス(150頃-215年以前)、オリゲネスなどに、グレゴリオスの自由意志論へと展開していく要素を見出すことができる3030Mathew Knell, Sin, Grace, and Free Will: A Historical Survey of Christian Thought Volume 1: the Apostolic Fathers to Augustine. James Clarke & Co, 2017.。その彼らが、同時代の決定論に対して、人間の自由を哲学的・神学的説明を試みた根本的動機は、聖書的人間理解を護ることであったことは言うまでもない。

以上の思想史を通して、新約聖書からグレゴリオスに至るまで、自由意志の思想史的形成が、中動態に満ちたギリシア語で思索し著述した人々によってなされたという事実を強調したい。つまり、確かにアリストテレス以前の古代ギリシアにおいて自由意志の概念は存在しなかったが、中動態が生きているギリシア語によって自由意志の思想史的形成もなされたのであり、中動態的言語・思想と自由意志は決して相容れないものではない。

のみならず、中動態的ケアと人間の自由意志も、決して対立しない点がこの思想史から理解できる。実際に、上述のように歴史世界の形成に責任を負う人間の自由意志を主張したグレゴリオスは、3節で詳述する通り、「憐れみ」を人間の「徳の頂点」として位置づけ3131De beatitudinibus, Ed. Johannes F. Callahan, GNO (=Gregorii Nysseni Opera) VII/2, Brill, 1992, p. 127, 9. 教父文献の引用はすべて原文から私訳した。、「共苦する憐れみ深い人(ὁ συμπαθής τε καὶ ἐλεήμων)は、苦しんでいる人にとって、〔まさに〕その悲嘆にくれる心が求めている存在になる」3232De beatitudinibus, GNO VII/2, 126, 18-21.と語る。このような共感・共苦から生まれる応答こそが、まさに中動態的ケアである。つまり、他者との対立を本質的に孕む西欧近代的な自由理解3333岡野八代『フェミニズムの政治学』、みすず書房、2012年、88頁。とは全く異なった、困窮する他者の痛みへの応答可能性を根拠づける人間の自由を、新約聖書と教父思想において見出すことができるのである。言い換えれば、その人間の自由は、その応答可能性において中動態的憐れみ・愛を生み出していくことで、歴史形成に参画していくと言えるのである。

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