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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏
② 罪人に対する神の憐れみ

次に、福音書において神の憐れみが、病者や貧者だけでなく、宗教的救いを必要とする罪人に対しても向けられている点に注目したい。具体的には、「放蕩息子の譬え」におけるスプランクニゾマイの用例を取り上げる。

まず、イエスによってこの譬えが、ユダヤ教において罪人と見なされていた人々を迎え入れ、共に食事していたイエスの振る舞いに対するファリサイ派の人々らからの批判への応答として語られているという点に着目したい(『ルカによる福音書』15章1-3節)。 

その際、ユダヤ社会において共食は、宗教的・社会的階層の境界線の役割を果たしていた文化的・宗教的背景を理解することが重要になる。実際に、イエスがファリサイ派の人々から「招待され」、彼らと共食している場面の記述があり(11章37節、14章1節)、当初ファリサイ派の人々は、宗教的指導者であるイエスを自らと同じ宗教的エリート階層に属する存在として扱っていたことが理解できる。そのファリサイ派の人々にとって、罪人たちを招き入れる共食は、宗教的エリート集団の神聖さを汚す行為であり、またイエス自らが罪人との交わりによって宗教的階層の底辺へと堕ちていく行為であった3838Joel B. Green, The Gospel of Luke. Eerdmans, 1997, p. 517.

それに対して聖書が伝えるイエスの姿は、①の用例で見たように、スプランクニゾマイの憐れみに突き動かされて、宗教的・社会的弱者を排除する律法を超克していくものであった。イエスは、宗教的・社会的階層の境界線を越境して罪人たちと共食する理由を「放蕩息子の譬え」を通して語っているが、その譬えにおいても中動態動詞「憐れみに突き動かされる」が次のように最も中心的な場所で使用されるのである。

すなわち、2人の息子を持つある父親に弟が自分の相続することになっていた財産を今受け取ることを求め、それを金に換えて遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くした。所持金を使い果たし飢えの極致に陥った時、その息子は、父の前で自らの過ちを認め、使用人の一人にしてもらうことを乞おうと心に決め、父親の家に戻ってくるのであるが、その息子の帰還を迎え入れる父親の姿を、イエスは次のように語っている。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れみに突き動かされてἐσπλαγχνίσθη)、走り寄って首を抱き、接吻した。(15章20節)

放蕩息子の父親の姿を通してイエスが示す神は、帰還する息子を遠くから見つけるや否や、激しい憐れみに突き動かされて、走り出さずにはいられない存在なのである。つまり、息子を強い意志によって能動的に許すといった決断を介さないほど強く憐れみに突き動かされて3939宮本久雄が、「西田幾多郎が『善の研究』で言う「純粋経験」は、主―客身分の直接経験として、中動態的と言えよう」と指摘している点は、このようなスプランクニゾマイの中動態性を理解する上で注目に値する。(『言語と証人』、104頁。)、息子を抱擁する父親のような神の姿をイエスは開示している。この思わず走り出す父親の姿に関して、当時の慣習上、地主階級の家父長が、公の場で走り、息子を抱擁することは、その威厳を失する、通常あり得ない行為である点に注目したい4040Green, op. cit., p. 583.。実に、先に引用した「憐れみ」を「徳の頂点」と捉えるグレゴリオスの霊性は、このように神の姿を、「憐れみに突き動かされる」という中動態によって特徴付ける聖書思想に根ざしているのである。

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