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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏
③ 隣人愛としての憐れみ

最後に、隣人愛を生きる人間を主語としてスプランクニゾマイが使用されている唯一の用例である「よきサマリア人の譬え」を取り上げる。このイエスによる譬えは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という律法の言葉をめぐり、愛することが命じられている「隣人」の境界線を明示することを求める律法の専門家への応答として語られる。

その譬えにおいてイエスは、ある人が、旅の途中で追いはぎに襲われ、半殺しにされた状態で道に捨て置かれ、偶然そこを通りかかった祭司やレビ人も、その人を避けて道の向こう側を通って行ってしまったという状況を物語った上で、次のように続ける。

ところが、旅をしていたあるサマリア人がそばに来た。そして、その人を見ると、憐れみに突き動かされてἐσπλαγχνίσθη)、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(『ルカによる福音書』10章33-4節)

ユダヤ人にとっての敵対者であり、アウト・カーストであるサマリア人とユダヤ社会・ユダヤ教におけるエリート階級である祭司とレビ人の「行為」が対比されているため、この譬えによって、神の民の構成員になるためには、社会的・宗教的な「帰属」ではなく「行為」が重要であるというメッセージを読み取る解釈が存在する4141Ibid., p. 431.。この譬えに愛の行為の重要性を読み取る解釈は決して間違いではないが、そのような解釈は、よきサマリア人のスプランクニゾマイの中動態性を見落とし、その介抱の行為を、隣人愛の道徳や義務感に従う意志による働きに還元してしまっている。また、善行の能動性が強調されすぎると、善人(強い意志によって高い道徳的行為を遂行できる宗教的エリート)と罪人という新たな排他的枠組みが生じてしまう。しかし、②の「放蕩息子の譬え」の考察からも明らかなように、それはイエスの人間に関わる姿勢ではない。

そこで、この譬えが語られた当時、サマリア人はユダヤ人と政治的・宗教的に敵対関係にあった点を理解することが極めて重要になる。この時代背景を踏まえると、宮本久雄が指摘する通り、「このサマリア人は倫理的規範や人間的義務感で半死半生のユダヤ人を助けたわけではなく、「憐れみ」に動かされて助けた」4242宮本、『言語と証人』、92頁。ことがより明瞭に理解できる。つまり、この譬えによってイエスは、強い意志や道徳律によって人類を普遍的に愛する博愛主義者になることを説いているのではない。実際に、サマリア人が宗教的・民族的に敵対していたユダヤ人を助けることは、道徳的な義務でなかっただけでなく、同胞から裏切りと見なされうる行為でもあったと言える。それにもかかわらず、サマリア人が追いはぎにあったユダヤ人を助けずにはいられなかったのは、「憐れみに突き動かされた」からにほかならないのである。このように民族的・宗教的枠組みを越境して敵同士が「隣人になる」地平を拓く根拠は、共感・共苦に基づく憐れみの働きなのである。

他方で「よきサマリア人の譬え」自体の中では、なぜこのサマリア人は、憐れみに突き動かされることができたのか、どうすればこのサマリア人の憐れみの心に近づくことができるのか、といった問いに対する説明は与えられていない。それゆえに、新約聖書全体との対話のなかでこの問いを踏み込んで深めていくことは、無心の憐れみを考えるために極めて重要になる。

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