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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏
② パウロにおける隣人愛と聖霊論

次に、人間の魂の最奥部に宿り、中動態的隣人愛を実らす力としての聖霊の働きについて論じている新約聖書のパウロ書簡を取りあげる。隣人愛に関するテキストを考察する前に、彼の聖霊論を理解するために、パウロが聖霊の受容を信仰の根拠として捉えている点に注目したい。

殊に、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(『コリントの信徒への手紙1』12章3節)と語るパウロの言葉が重要になる。ヘブライ語で書かれた旧約聖書において神の名は「YHWH」(ヤハウェと発音すると推定される)という神聖四文字によって記されているが、神の名を呼ぶことは畏れ多いと考えられていたため、「YHWH」を「主(アドナイ)」と置き換えて朗読していた。それゆえに、この「イエスは主である」という信仰告白は、絶対的神としてイエスを言い表す言葉であると理解できる。その上で、このような信仰告白は、人間の表層意識における理性的判断や意志的決断によって可能なものではなく、魂の最奥部、つまり人間の理性、意志、感情を根底で統合する霊性の場に宿る聖霊の働きを必要とするのである4545小野寺功は、「主体も客体も共に包んで、あらゆるものの根底にあって一つの感応・共響体として成りたたせる働き」である聖霊を、「知情意と独立した対象論的思考」で理解することはできず、鈴木大拙の「霊性」・西田幾多郎の「場所」の論理を通して人間存在の根底において聖霊を捉えていくことの重要性を強調している(『大地の哲学―場所的論理とキリスト教』、三一書房、1983年、98頁)。。その意味でパウロにとって、信仰自体が、聖霊の働きのなかで中動態的に生じるものと捉えられていると言える。

さらにパウロが中動態的に湧き上がってくる信仰を、人間の魂の最奥部に宿る聖霊の叫びとして捉えている次の言葉に注目したい。

あなたがたが子であることを示すために、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださいました。(『ガラテヤの信徒への手紙』4章6節)

ここでパウロは、人間の知情意の根底である「心(καρδία)」に宿り、信仰と祈りを湧き上がらせる聖霊の働きを論じている。さらに、この「アッバ(αββα)」という叫びは、幼児語で「パパ・お父ちゃん」を意味する、イエスが日常使用していたアラマイ語であり、イエスの肉声を残すために敢えてギリシア語に音写されている。エレミアスの研究が明らかにしたように、イエスの祈りの決定的な特徴は、幼子のような全き信頼を込めて神に向かって「アッバ」と呼びかけていた点にあるが4646Joachim Jeremias, The Prayers of Jesus. SCM Press, 1967, pp. 11-65.、ここでパウロは、「アッバと幼子」の関係によって表現される神との親密な関係へと私たちを招き入れる聖霊の働きを強調している。

以上の点を踏まえた上で、「アッバ」という叫びがおのずから溢れ出すという中動態的信仰は、他者との関わりにおいてイエスの愛・憐れみ(スプランクニゾマイ)を映し出す中動態的「愛」と深く連動している点について指摘したい。この点に関してパウロが「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」ことを強調し(14節)、聖霊論と隣人愛について論じている『ガラテアの信徒への手紙』5章を取り上げたい。このパウロの言葉に関して、「「隣人を愛すること」は「律法全体を行うこと」より易しい選択肢ではない」ことを強調するダンの考察は極めて重要である。つまり、ダンは「隣人を愛するということが何を要求するか」は、「誰が隣人であり、それぞれの個別の事例における彼/彼女の状況によるため、より一層多くを要求する。さらに、その要求には終わりがないのである」と指摘している4747James D.G. Dunn, The Epistle to the Galatians. A & C Black, 1993, p. 292.。実際に、パウロは、人間の意志の強さによってこのような隣人愛の掟を真に生きることの難しさを理解しているからこそ、次のように隣人愛の根拠として内在する聖霊の働きを強調しているのである。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊に従って歩みなさい。(中略)霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。(中略)霊の実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(同、5章16-8節)

ここでパウロは、人間の利己的欲望や暴力性を超克して、隣人愛の掟を真に満たすことは、律法による外的な強要では不可能であり、より強力で持続する力を供給する聖霊の働きが必要であると主張している4848Ibid., p. 300.。それゆえに、パウロは、隣人愛を生きるために、「霊に従って歩みなさい」と命じているのである。この動詞「歩みなさい(περιπατεῖτε)」は能動態であり、聖霊の働きかけに応答する人間の自由な主体性を示している。同時に、「霊に導かれているなら(ἄγεσθε)」は受動態である。したがって、このような聖霊の働きかけに対する人間の自由と受動性のバランスは、まさに中動態的歩みであると言えよう。

その上でパウロが、「愛(ἀγάπη)」を、聖霊の働きかけから湧き上がる「霊の実」として捉えている点は注目に値する。その意味で、隣人愛は、聖霊の働きかけに対する中動態的応答から湧き上がる「愛」の場・通路となり、共感・共苦に基づいて他者の必要に日々応答していく絶えざる道行きなのである。

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