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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏

2 隣人愛と場所的論理

以上のような問題意識から、愛の掟をめぐる『ヨハネによる福音書』とパウロ書簡を新約聖書の中から取り上げたい。その際、人間の意識の根底から湧き上がってくる中動態的隣人愛が、「掟」として命じられていることの意味を考察していく。その作業によって、新約聖書における中動態的愛・憐れみと人間の自由との関わりを解明していきたい。

① ぶどうの木の比喩における愛の中動態性

まず、最後の晩餐でイエスが弟子たちに相互愛の掟を授ける次の言葉に注目したい。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(中略)わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(『ヨハネによる福音書』15章9-14節)

「よきサマリア人の譬え」においては、隣人愛が、中動態動詞スプランクニゾマイによって表現されていたが、『ヨハネによる福音書』においては、「愛・アガペー(ἀγάπη)」が鍵語として使用される。このアガペーの動詞形「愛する(ἀγαπάω)」は文法的には能動態であるが、ヨハネの用法において中動態的意味合いを顕著に持つ点について場所的論理の視点から論じたい。

ここでイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という相互愛の「掟」を命じている。しかし、人間の救いのために十字架の死を引き受けるイエスが示した愛の大きさを考えるならば、その実行が、人間の能動的意志の力をはるかに超えていることが理解できる。だからこそ、命令形で述べられているもう一つの言葉「わたしの愛にとどまりなさい」が極めて重要になる。この「とどまりなさい(μαίνατε)」は、持続的な状態を表現する現在形ではなく、一回的な動作に対して使用されるギリシア語特有の時制であるアオリスト形が使用されており、イエスの愛との一致にまず参入し、そこにとどまるというニュアンスが込められている4343C. K. Barrett, The Gospel According to John: An Introduction with Commentary and Notes on the Greek Text. S.P.C.K, 1962, p. 397.。その意味で十字架の死を引き受けるイエスの愛に出会うことがまず求められているのであり、相互愛の掟が成就される根拠は、そのイエスの愛への参与にあるのである。

この点を理解するために、イエスが相互愛の掟を命じる直前で語っている、次の「ぶどうの木の譬え」が極めて重要になる。

わたしの中にとどまっていなさい、そうすればわたしもあなたがたの中にとどまっている。ぶどうの枝が、木の中にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしの中にとどまっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしの中にとどまっており、わたしもその人の中にとどまっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(『ヨハネによる福音書』15章4-5節)

ここで繰り返し使用されている「とどまる」という語はすべて、9節の「わたしの愛にとどまりなさい」と同じギリシア語である。特にこの4節では、9節と全く同じアオリスト形で「わたしの中にとどまっていなさい」と命じられており、この「ぶどうの木の譬え」と先に見た相互愛の掟との間には、明確なパラレルが見いだされる。このパラレルに注目するならば、ぶどうの木であるイエスに一致することで豊かに結ばれる「実」は、「相互愛」の掟の実現を意味していると解釈して間違いない。

その上で、「枝」である人間に対して、能動態的に「実を結びなさい」という命令はなされていないという点に注意を向けたい。逆に、「自分では実を結ぶことができない」「枝」のような、人間の意識のレベルにおける主体的・能動的な意志の限界が強調されている。だからこそ、「ぶどうの木」であるイエスと一致することが決定的に重要になるのであり、その一致があるなら、相互愛の掟の成就という「実」は、おのずから中動態的に結ばれるのである。つまり、イエスの愛に深く出会うなかで、自らも隣人との関わりにおいてイエスから注がれる愛の溢れ出す場・通路となる姿こそが、『ヨハネによる福音書』が捉える中動態的隣人愛・相互愛なのである。この愛に対する理解は、西田幾多郎が、「我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。而して超越的一者に対することによって自己が自己であるということは、同時に私がアガペ的に隣人に対することである」4444西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」、『西田幾多郎哲学論集III』、上田閑照編、岩波書店、2016年、79頁。と語る場所的愛の思想と深く共鳴する。さらに、神の愛が湧き上がる場となることを求める『ヨハネによる福音書』の霊性は、今道が「神の創造に協力する」ことを選択し得る「存在論的な力」であると論じるグレゴリオスの自由意志理解の源泉であると考えることができる。

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