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無心と憐れみの霊性に基づくケアと連帯

――宗教知の協働に向けた聖書・教父思想の再解釈

山根息吹氏

そこで、本論では無心のケアという問題意識との関連において、グレゴリオスにおける「不受動心・アパテイア」と共苦・憐れみとの関係に注目したい。先述の通り、「憐れみ」を「徳の頂点」と位置付けるグレゴリオスの思想との比較において土井健司が、古ストア派において「憐れみ」が、「魂の非理性的で、自然に反した動としての情念」である「『苦痛』の下位概念として否定されるべきものとして論じられている」と指摘している点は注目に値する5858土井、『救貧看護とフィランスロピア』、175頁。。つまり、古代ギリシア・ヘレニズム思想における「不受動心」は、「パトス・情念」から自らを「浄化」することで獲得される心の平安を意味し、哲人・賢人の特徴とされていたが、他者に対する憐れみ・共苦のパトスを否定することを必要とした。また、プラトン主義において「浄化」は、この世界からの離脱・逃亡を意味し、新プラトン主義を代表するプロティノスは、「自分ひとりだけになって、かのものひとり[一者]だけを目指して逃れ行くこと」5959Enneades, 6, 9, 11, 51.(Plotini Opera. Tomus 3. Ed. Paul Henry et Hans-Rudolf Schwyzer, Oxford Classical Texts, 1982. )として、人間の「浄化」の道行きを捉える。

それに対して、グレゴリオスが、「浄化」の道行きを、「憐れみ」に基づく他者との連帯をこの歴史世界のなかに創り出していく霊性へと目的づけている点は注目に値する。この点に関して、グレゴリオスが、この世界から離脱・逃亡することによってではなく、人間がこの世界において神の働きの場になることによって、人間の神との一致が実現すると捉えている点は極めて重要である。

『真福八端について』でグレゴリオスは、「実に神性は、清らかさ、パトスからの自由、そしてあらゆる悪からの絶縁である。それゆえに、もしこれらのものがあなた方の中にあるなら、本当に神はあなたの中にいる」6060De beatitudinibus, GNO VII/2, 144, 2-4.と述べる。つまり、グレゴリオスは、我欲・我執に基づく「情念・パトス」から清められ、自由になることで、人間は自らの中に神を受け容れる「場」になることができると主張している。他方で、次の引用から明らかなように、グレゴリオスにとって神を自らに宿すこととは、神の働きの場となって神の特性を自らにおいて体現することに他ならないのであり、「憐れみ」は人間が模倣すべき神の主要な特性である。

それゆえに、もし憐れみ深い方という呼び名が神にふさわしいなら、〔「憐れみ深い人は幸いである」という言葉によって〕、あなたが神性の特性に形造られて、神になるように(θεόν γενέσθαι)とロゴス[キリスト]が招いているのではなくてなんであろう。6161De beatitudinibus, GNO VII/2, 124, 24-26.

ここでグレゴリオスが憐れみを通して人間が「神になる」と語っている言葉は、神化(deification)という教父思想の伝統に基づいて表現されているが、自らを神格化する驕りとは反対に、自らを無にして神の全き働きの場とされることを意味する。グレゴリオスは、「共苦する憐れみ深い人は、苦しんでいる人にとって、〔まさに〕その悲嘆にくれる心が求めている存在になる」6262De beatitudinibus, GNO VII/2, 126, 18-21.と語り、そのような「憐れみ」を「徳の頂点」と位置付けている。このようにグレゴリオスは、悪しき情念から自らを清めて、憐れみの神の働きの場となることで、まさに他者の苦しみを感受する心を求めていく宗教性を示したのである。

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